誰も知らない世界

 接客業をしている関係上、様々な人に出会うのだが、本当に酷い人がいる。

 生活保護をでっち上げて豪遊している人や、1週間風呂に入っていなくて足が化膿してしまっている人、重度の痴呆で自分がなぜここにいるのか分からなくなる人や、うつむく自分の子供の顔を平手で殴りながら無理やり商品を選ばせる親、雇い主に連れてこられた日雇い労働者や、経済難で5000円が払えない老人、万引き犯やクレーマー、自分の言い分しか受け付けない人や、ヒステリーで商品が顔に触れただけで叫び声を上げる人、・・・・

 そういう人たちが現実にいることを知っていて、そういう無名の最底辺にいる人たちが、この世界を構成しているのだ、と分かっているからこそ、私が世界を語るときには、必ずこういう人たちの目線から物を語ることになる。
 だがおそらく、公務員や営業マン、メーカー勤務の人やIT企業の人や、会社の重役の人たちにとっては、ワーキングプアやモンスターや、ホームレスや障害者の存在など、テレビや本の中の世界の話で、彼らが世界を語る時、そういう人たちの存在は、物の換算にすら入っていないのだろう。
 だから、私の語る世界と、他の人が語る世界は、どこかでズレがあり、どこかに違和が生じている。

 昔健康器具の営業をしていた、という人がいて、その人が言うには、末期の高齢者の有様というのは、この世の地獄を見るようなものらしい。
 足腰が弱まるといけないから、との言い訳で家族から家を追い出され、1日10時間ひたすら駐車場の車1台分のスペースを歩き続ける人、汚物を手のひらに抱え、微笑みながら差し出す人、廊下に排尿して嗚咽を漏らしながらその場にへたり込む人、何を食べさせてもうまいもまずいも辛いも甘いも感じられなくなった人、パーキンソン病で体が丸くなり、布切れと区別がつかないほどに小さくなってしまった人、家族と同じ食卓を囲む体力もなくなってしまったので、一人床に座らされ、ペットのように食事を取る人・・・
 その人は神も宗教も、平和も救いも信じないと言う。
 「神とか救いとか言うならさ、まずそいつが、俺の見た救われない人たちを100人救ってみろよ、っていうんだよ」


 たぶん私には私にしか分からない世界があって、彼には彼にしか分からない世界があって、裕福に何不自由なく生きてきた人は、その両方とも、生涯知ることなく人生を終えていく。
 そう考えていくと、この世のすべての人類誰からも見向きもされない、「誰も知らない世界」というものも、この世には存在するのではないだろうか。

 私たちが語る世界というものは、あまりにも小さく、そしてあまりにも、現実に届いていない。

人は如何に生きるべきか

 今振り返ると、随分ひどいことをしてきたな、と思う。

 親を泣かせたこともあるし、約束を破ったこともあるし、友達を縁を切ったこともあるし、嘘をついたこともあるし、相手を傷つけるようなことを言ったこともあるし、かっこよくもないのにかっこつけていたこともあるし、周りの人間はなんでこんな頭が悪いんだろうと軽蔑したこともあるし、逃げも隠れもしたこともあるし、とんでもない人生だ。


 人類も、地球に対してひどいことをしてばかりだった。戦争はするし、魔女狩りはするし、奴隷を従えたりするはするし、謀略で主に毒を飲ませたりはするし、病気は流行らせるし、革命は起こすし、石油は掘り当てるし、密告はするし、隠蔽はするし、何もかも最低だ。

 結局今、環境問題環境問題と訴えているものは、つまるところ人類の生き方が間違っていた、ということに対するひとつの「結果」だ。
 これまでの人類の生き方は、どこかに決定的な間違いがあって、それを是正しなければならない、その具体的な判例として、環境問題は存在しているわけだ。
 今俗に「地球温暖化」とか「マイナス6%」とか言っているものは、要するに「人類の過ちをCO2排出量に換算しよう」としているだけのことにすぎない。
 大切なのは、CO2を減らすことではなくて、CO2を減らすことをひとつのきっかけとして、私たちの歩みのどこに間違いがあったのか、そして人はどのように生きるべきであったのか、その“答え”を、導き出すことだ。

 人は如何に生きるべきか。エコロジーが問うものは、すべからく最後にはそこに行き着くのだ。

監獄の国

 某レストラングループの契約店長の死亡が、過労死として認定されたらしい。限界を超える残業を強要され、倒れたのだそうだ。

 過労死、と聞いていつも思うのは「そうなる前に逃げ出すことはできなかったのだろうか」ということだが、私自身の実体験から照らし合わせても、「逃げ出す」という行為は、じつは簡単なことではない。
 「死と逃亡」を天秤にかける、ということについて、人は簡単に「死のほうが重く、逃亡のほうが軽い」という判定を下しがちだ。死んでしまっては遅いのだから、と。
 だがこの国では、逃亡した“後”の精神的なストレスと実質的なリスクは、想像するだに尋常ではなく、逃亡した後の罵詈雑言、重圧、手続き、復帰の難易度、そういったことを考慮すると、「逃亡は死よりも重い」と判断する人たちが多いのも理解できる。

 過労死もそうだし、14歳がバスジャックを起こすのもそうだし、秋葉原で無差別殺人が起こるのもそうだし、この国における様々な問題の根本は、「逃げ出せないから」という点にある、と言っても過言ではない。
 逃げてしまったら、死よりも辛い生を生かされる、その現実が、様々な歪みを引き起こす一番の原因だとも言えるのではないだろうか。
 
 なぜこの国はこんなにも「逃げ出せない」国になってしまったのだろう。いや、昔からこの国は「逃げ出せない」国だったのだろうか。
 「逃げてもいいよ」「逃げるべきだよ」そういった言葉が“現実”として通用する国にならない限り、悲劇は、増え続けるだろう。

消費ではなく生産を改める

 根本的な部分で、大きな勘違いをしていたのかもしれない。

 過去に記事にしたことがあるが、私は常時利用している総菜屋さんの量り売りカップを、いつも洗って持ち歩いていて、その総菜屋を理由する際には、袋だけでなくカップもリユースし、ゴミを出さないようにしていた。
 そして、その行いは、自分なりの正義だと思っていた。

 だがそれでも総菜屋では、毎日新しいカップが陳列されては古いカップは破棄されて、同様に食材そのものも、毎日とても全部売り切れないだろうと言うほどに山盛りに積まれては、毎日古い食材は破棄され続けていた。
 消費者が消費者の立場でゴミの量を減らしたとしても、「作られる“ゴミ”」の量は変わらない。
 環境のことを根本的に考えるならば、消費を減らすよりも、“生産・受注”を減らす方法を考えなければならず、そういう意味では、私を含めて消費者は、「ゴミを減らせる工夫をしているお店」ではなく、「その日のうちに売り切れて、商品を余らせるようなことをしない店」を選択しなければならなかったのだ。

 なので少し買い物の方法を改めることにした。

 正義は、常いかなるときも正義である、とは限らない。

ROOM

 言いたくても言えないことなんて、人間なら誰もが持っている。
 過去のトラウマから、積もり積もった不平不満から、ふと思いついたしょうもないダジャレまで、人間の人生なんて、言いたくても言えないことで山盛りだ。

 だが人の人生のというものは、そういった言いたくても言えないことの影響下で進行している。今の自分の姿が過去の劣等感の裏返しであったり、怒りや不満が今の仕事を支える原動力となっていたり、1個人の姿は、目に見える部分以上に、「言いたくても言えない」という、目に見えない部分によって形成されている、と言ってもいい。

 富から権力、筋力からある1分野のテクニックに至るまで、この世のすべての力は、「言いたいことを言えるようになるための大義名分」として存在している、と言っても過言ではない。
 本当はいじめられて辛かった、本当は勉強なんてしたくなかった、本当はあの時友達が死ぬほど羨ましかった、本当は最初の彼女と結婚したいと思っていた、本当は母親を憎んでいたのではなく愛していた、本当はあいつに優しくしていたのはあいつとセックスしたいからだった、本当はあなたの言うことに全然興味がなかった、本当は死にたいのではなくて助けてほしかった、本当は自分もああいう大人になってしまうのかなと思うのが怖かった、本当は恋愛なんてしなくてもいいかなと思っていた、本当は適当に話を合わせていればいいかなとそれだけ思っていた、本当は誤解される以上に理解されてしまうのが嫌だった、本当は何もしたくなかった、・・・
 そういった言いたくても言えないことを言ったとしても、誰にも咎められない、ということが「力を持つ」ということの、本当の意味なのである。

 この世界に自由は少ない。
 

ほどかれた腕

 「エコロジーとエコノミーのバランス」は、常に環境問題を語る上での最重要案件として議論され続けてきた。

 時系列で言うと、今は「環境が大変だからエコロジーに偏ろう→でも、そうすると経済が成り立たなくなる→省エネグッズやフェアトレードの流通で、エコロジーと経済の発展は両立できるよ!→実際やってみたらエコグッズの大量生産大量消費とか、リサイクルすれば大量廃棄してもかまわないと言い出す人が出てきて、やっぱりどこかで無理が出てきたよね」という段階で、やはりどんなに妥協点を探っても、根本的な環境問題の解決のためには、経済を停滞させるしかないのではないだろうか、と、エコロジー派とエコノミー派が睨み合っている状態かと思う。

 現に私の職場でも、環境問題云々言っているけど、温暖化を止めるためには、今より不景気にならなくてはいけないのだろう、という認識を持っている人が多数いる。
 それは別の言葉で言うと、「エコロジーは俺たちの仕事を奪ったり、給料を減らしたり、税金を増やしたり、庶民の負担を重くしようとしている」という認識でもあり、そのせいでいわゆるエコロジーに憎悪の目を向けている人も少なくない。


 「地球温暖化の止めるために私たちができること」という見出しをよく見かける。その時の“私たち”とは、一体誰のことを指しているのだろうか。
 おそらくこれからこの国は、「金銭的余裕」があるかないかで、エコロジーを推進する人と、エコロジーに憎悪の目を向ける人、その両極端に分かれていくのではないか、と思う。
 それは表現を変えると、これからはエコロジーに「無関心」である人が少なくなる代わりに、エコロジーに「敵意」の目を向ける人が相対的に増えるだろう、ということでもある。

 例えば、今牛肉はほとんどがアメリカ、カナダ、オーストラリアから輸入されていて、牛1頭を育てるのに必要なCO2と、産地から輸送する際の「フードマイレージ」の観点から、国産の肉を食べるようにしよう、という話がある。
 だが、現実に外国産の牛肉の輸入をストップしたら、牛肉の原価が急高騰し、年収600万円以下の庶民は、生涯牛肉を口にすることができない、という事態になるだろう。
 その時の日本は、「年収600万以下」の庶民の人口がどれどほど広がっていて、これまで口にすることができた食べものが、エコロジーのせいで口にできなくなってしまった、となった時に、彼らがどういう行動に出るのか。

 「そういう事態になった時にどうするのか」ということと、「そういう事態を回避するためにはどうすればいいのか」ということを、議論してもいいのではないか、と思う。

神が宿る

 心の中に“狐”を飼うと良いらしい。そうするとお稲荷様のご加護で、お金が舞い込んできたり、願いが叶ったりするのだそうだ。
 その信憑性はさておいて、心の中に何かが宿っている、という感覚は、私たちは皆なんとなく共有しているのではないかと思う。
 それは妄想の中のもう一人の自分であったり、“ガイド”と言う名の妖精さんだったり、あるいは自分の中に潜む多重人格だったり、いろいろだろうが、人は誰もが、自分の中に本当の自分ではない「何か」を宿している。

 性善説を取るか性悪説を取るか、という認識の違いもあるのだろうが、私の心の中には常に「悪魔」が宿っている、という自覚がある。
 それは西洋の伝説に出てくるような、蝙蝠の化身の姿をしたものではなく、例えるなら『魔人探偵脳噛ネウロ』のような、人の姿をしながら凶悪な思考を囁く魔人で、そいつは時々心の中に現れては、憎悪や罵倒や蔑みの心をばらまいていく。
 もちろんそういった心情を表に出すことはないが、そういう「囁き」が朝に聞こえるような日は、必ずと言っていいほど運勢が悪い。

 だが、人間とは、誰もが心の中に、悪魔と神を抱え、戦い続ける生き物なのではないだろうか。
 そういう意味で、悪魔を宿した私は、まごう事なき「人間」なのだろうな、と思う。
 
 穢れと共に生きていくのだ。人間というものは。

「クールビズ」の本当の意味

 職場近くの銀行がクールビズを始めた。半袖ワイシャツにノータイで、胸には「クールビズ実施中」と書かれた名札を刺し、店頭には「クールビス実施中につき、お客様のご理解とご協力をお願い致します」という張り紙が貼られていた。


 大半の人が勘違いしているが、半袖ワイシャツにノータイ、涼しい格好で仕事をするだけではクールビズは意味を成さない。
 半袖ノータイ、格好が涼しくなったから「冷房の設定温度を上げる」ことによって、初めてクールビズは成立するのだ。クールビズとは、そもそも冷房の効かせ過ぎによるCO2の排出を抑えることに、その意義があるのだから。

 そう考えると、じつはクールビズを行うには、一定の“篩い”というか、条件をクリアする必要がある。
 クールビズを行うには、「涼しい格好をしているから、その場にいるすべての人間が多少暑い中で仕事をしても平気だ」という前提が必要となる。
 だから、例えば事務職や営業職のように、一日中その部屋から動かない、という仕事ではクールビスを行うことが可能だが、例えば接客業のような「暑い最中にお越しいただいたお客様に、涼しい空間を提供するのもサービスの一環だ」と考えるような仕事の場合、どんなに半袖ワイシャツを着用しようとも、ノータイになろうとも、「外部からお越しいただくお客様を相手する関係上、部屋の冷房の設定温度を必要以上に上げることができない」という理由で、クールビズは成立しない。

 そういう意味で言えば、銀行などはまさに後者の代表格で、現に店内では少し寒いくらいに快適に冷房が効いていて、まったく「クールビズ」になっていなかった。
 「クールビス実施中につき、お客様のご理解とご協力をお願い致します」というのも、おそらく「簡素な格好でごめんなさい」という意味なのだろうが、本来クールビズでお客様にお詫びするのなら、「冷房の温度を上げた関係で、暑い思いをさせるけどごめんなさい」という意味合いで、お詫びを入れるべきなのだ。
 だがおそらく、今後もそのような意味合いでクールビズを行うような接客業やサービス業は現れることはないだろう。

 簡単に言うと、今現在の段階では、クールビズは単なる「スーツ業界の丸儲け」にしかなっていない。
 クールビズは「涼しく仕事をする」ことではなく、「暑くても我慢ができる格好で仕事をすること」なのだが、そのような本来の意味合いでクールビズを定着させるには、様々な抵抗と反撥と障害があるだろう。
 そういう意味で、クールビズがエコロジーと成り得るかどうか、今のところは分からない。
 

かたるべきこと

 世に悩みの種は尽きない。

 目覚まし時計が鳴らなかったとか、鍵を掛け忘れたとか、電車が遅れて遅刻しそうだとかそんな些細なことから、動物が絶滅しそうだとか、政治の腐敗のツケが私たちに覆い被りそうだとか、私はこの世界で生きていて良い存在なのだろうかとか、そんなことまで、とにかく世界と人生は悩みの連続だ。

 物事が存在する以上、そこには必ず「原因」と「条件」が存在する。起こったこと、存在すること、それらはすべて何がしかの「結果」なのだから。
 人生が悩みに満ち溢れているのだとすれば、そのすべてにも「原因」と「条件」が存在する。
 だから、私たちは、その「答え」を、導き出さなければならない。

 霊が見える人がいる。その人が言うには、幸福であること、不幸であること、運があることないこと、そのすべてに霊は関わっているのだと言う。以前にも書いたが、私にはそういった類の物がさっぱり見えない。
 数式の解答でも、天使でも霊でも何でもいいが、他人には見えているものが、私には見えていないということは、私がそれだけ「答え」からほど遠いところにいる、ということになる。

 「答え」はどこにあるのだろうか。それだけをずっと探し続けている。
 「答え」のある場所。それが本当の、私の「居場所」に違いない。

冷静に考えるとキャンドルナイトって

 昨日は七夕で、あいにく東京は曇り空で天の川を拝むことはできなかったのだが、エコロジー的には「クールアースデイ」の日でもあったらしい。全然知らなかった。
 「クールアースデイ」とは、なんてことはない、夏至冬至だけでなく、七夕にもキャンドルナイトをしよう、という企画で、実際ファミリーマートやヨドバシカメラなどでは、20時から22時まで、店頭の照明を消灯したらしい。

 しかし、冷静になって考えて直してみた。

 昔、東京電力が節電を呼びかけるCMが、よくテレビで流れていた。今でも流れているかもしれない。
 そこで、「でんこちゃん」が夏の電力消費の1日の推移を紹介してくれていたのだが、それによると、夏は朝から消費電力が徐々に上っていき、午後2時ごろにピークを迎え、そして夜になるにつれまた徐々に下がっていく、とのことだった。
 夏は特に消費電力が多く、あまりに電力消費が多いと電力供給に差支えが出る可能性があるから、午後1時から3時くらいにかけては、特に省エネを心がけてくれ、というのがCMの主旨だったのだが、それを思い起こすと、夜はピークを過ぎて、1日の中でも最も消費電力の少ない時間帯だ、ということになる。
 
 それに加えてもう一つ、今現在、コンビニの深夜営業を自粛するべきかどうか、ということが議論されているのだが、その中で、1日の消費電力は時間帯によって推移していくが、発電所で作られる電力は24時間均一で、深夜時間帯はむしろ電力が「余る」時間帯なので、深夜に作った電力を昼の時間帯に移し変えられる技術が開発されない限り、深夜のコンビニの営業自粛はエコロジー的にまったく意味を成さない、という意見があった。

 
 いつもキャンドルナイトは夜の8時から10時までが消灯時間になっているが、以上の2つの点を考えると、キャンドルナイトは「啓蒙活動」として効果はあるにしろ、電力が節約される、という意味合いでの実効性はほとんどない、ということになる。
 そういえばキャンドルナイトが始まったばかりの頃、坂本龍一氏が「キャンドルナイトで日本中の電気が一斉に消えたら、どれだけ消費電力がエネルギーの節約になるのだろう、それを知るのが楽しみだ」という主旨の発言をしていたことがあったが、実際どれだけ省エネになったのか、という統計が環境省から公開されないことからするに、あまり驚くような成果は出ていないのかもしれない。

 むしろ本当にエコロジー的な実効性を持たせるのであれば、昼の12時から2時までを消灯時間にすればいいのだが、それだと経済活動が滞るし、暑くてみんな我慢できないのかもしれない。
 難しいものだ。