はじめには、森ではなく木があったのだ

 立教大学のキャンドルナイトに参加して、一つだけ気づいたことがある。
 救いとは、「音」だったのだ。

 礼拝堂でのミサは、「立教学院諸聖徒礼拝堂ハンドベルクワイア」(要するにハンドベルサークルのこと、だと思う)によるハンドベルの演奏からスタートした。
 静粛な礼拝堂に響き渡る、透き通ったハンドベルの音色。その演奏を聴きながら、「ああ、真の信仰を持つ人ほど、この音色に包まれた時、「赦された」と感じられるんだろうなぁ」と思い、それを感じた瞬間、メロディや楽曲ではなく、「音」こそが救いとなるのだ、と実感した。

 つまり真の救いを求めれば求めるほど、それは「原初的な」ものに近づいていくのではないか、ということだ。楽曲よりも音、言葉よりも声、歌よりも叫び。

 私たちは物質的に恵まれることを求めすぎたことによって、心や、あるいは美しい環境を失ってしまった、とよく言われる。しかしてその実体とは、理論や、情報や、形に囚われることによって、「原初的なもの」を失ってしまった、ということではないだろうか。
 大層なご高説よりもまず種を植えること、数時間に及ぶ大曲を作り上げることよりもまず美しい音を奏でること、1000の言葉を並べるよりもまず笑うこと。経済的に後退する、ということではなく、「原初的な救い」を取り戻す、ということが、これからの世界には、大切なことになってくるのではないか、そんな気がする。

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コメント

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Re:はじめには、森ではなく木があったのだ
エコとは関係ないですが「音」ということであれば、植物状態の人でも話しかけ続けたりすると奇跡的に意識を取り戻すことがあるっていいますね。
“聴覚”というプリミティブな感覚は確かに救いになるのかもしれません。「福“音”」って言葉もありますしね。
Re:はじめには、森ではなく木があったのだ
>>マネージャーさん
 以前に記事にも書いたのですが、救いを求めたり、祈りを必要としたりといった精神的なココロの在りようが、環境問題にとっても大きな位置を示すのではないか、という前提でこのブログの記事は作成されています。
 五感を研ぎ澄ますことの必要性は、特にLOHASではよく言われてますよね。直感に正直になる、ということを人間は忘れてしまったのかもしれません。
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