2007年12月24日
愛の行方
クリスマスである。さすがに街角にはカップルばっかりだ。 クリスマスが神の祭典や子供たちの祭典から、恋人たちの祭典になったことについて、毎年賛否両論聞かれるが、私自身はクリスマスがそういう日になったことに異論はない。むしろ、母の日や父の日や子供の日があるのだから、「恋人の日」、ということで恋人たちが1年に1度くらいお互いの愛を確かめ合う日があってもいいじゃないか、と思う。 とはいいつつも、私にはあいにくそういう相手がいないので、こうして今日もPCと向き合っているのである。 1つ気がついたのは、「愛」とは、ミルフィーユのように、何層もの層になっている、ということだ。 「愛」という言葉で表現できるものは1つではない。「敬意」だって愛の1種だろうし、「博愛」という広義の愛だって立派な愛の1つだ。 そういった様々な形の愛が、1つの層を形成している、それが1個人の持つ愛の姿だ。 そういった意味で、「愛」について、人が求めているものも1つではない。 例えば、今の恋人を選んだ理由が、「一緒にいて楽しいから」だとして、では「その人を一緒にいて楽しい、ということを自分は望んでいるのか」と言われると、そうでもない、ということもある。 「付き合う」とか「デートする」とか「結婚する」とか、そういういわゆる「恋愛」は、いくつもの層の1断面であって、そのたった1断面に、自分は随分と縛られていたのだな、と最近気づいた。 いわゆる「恋愛」ではない「愛」で結ばれた男女間の結びつきだってある、と気づいて、「結ばれる」ということについてかなり自由になった気がしたが、そういうことを言って通じる人が何人いるのかは分からない。 「そういうことだったのかもしれない」「そういうことじゃなかったんだ」そんなことの繰り返しだ。こと「恋愛」に関しては。
- posted by よっひ~ |
- 22:39 |
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