2007年12月28日
信じるものしか、信じられない
悲しいかな、人間というものは、世界のすべてを知ることができない。 これだけ情報社会と呼ばれ、世界が密接に関わりあっている、と言われている今日においても、世界は100年程度では決して知り尽くせないほどの広さを誇っている。 地理的なことで言えば、例えば私はペルーの人とか、ノルウェーの人とかが、何を考え、何を思い生きているのかが全然分からない。その人たちの行動が私の理解を超えている、という意味ではなく、生活環境がまったく異なる人たちが、その“まったく違う環境下”だと、どういう思考方式を取るのか、ということが私の想像を越えているのだ。 心理的なことで言えば、例えば私はタバコを吸う人のことが全然分からない。これも理解を超えている、ということではなく、「身体に悪いと情報で知りながら、それをブレイクスルーしてまでタバコをどうしても吸わなければならなかった動機」が、私には想像できないのだ。 結局人間が人生の中で知ることができることや、感じることができることは非常に限られていて、どんなに勉強し、どんなに経験を積もうとも、世界という広大なフィールドで見れば、分かることよりも分からないことのほうがずっと多いのだ。 情報化社会、と現代が呼ばれるようになって、「どれだけ情報を持っているか」「どれだけ知識を得ているか」が、人間の価値を図る基準の1つとなった。 だが、どんなに知ろう知ろうとがむしゃらに頑張っても、知ることができることなど些細なものなのだと気づけば、結局「信じられるものを信じるしかない」という、良い意味での限界を知ることができる。 どんなに知識や情報量で相手より優位に立っていようとも、その優位に立った知識量でさえ、些細なものなのだと気づけば、「私の言っていることは間違っているかもしれない」という謙虚さを持つことができる。 「これまでたくさん勉強してきましたが、それでも世界のすべてを知ることができなかったので、“すべてを知ることができなかった”という穴がある以上、私が考えることや訴えることにも、穴があって当然だと思います。」 私が考えていることも、きっと穴だらけだ。だが、たとえ穴だらけでも、「どこかは埋まっている」そう信じて、自分の信念を築いていくしかないのである。
- posted by よっひ~ |
- 23:23 |
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