或る別れ

 偶然、友人と知り合いが同時に「愛犬の死」を体験した。
 そして偶然にも、2人ともその愛犬の死に至るまでの思いまでが似通っていて、こういったことにも何か大きな力のようなものが働いているのだろうか、と思わざるを得なかった。
 ちなみに2人とも、愛犬が弱っていく姿を見て、取り残される不安と悲しみを感じていたが、ある日の体験を境に(その体験そのものはさすがに違うものだったが)、「死」に対する思いを切り替えて、不安や悲しみを克服した、と言っていた。

 死は観念だ、と言う人もいる。生物学的に言えば、死とは単純に臓器の働きが停止するというだけのことだ、と主張する人もいるし、死とは、現世から大いなる生命へ還る大きな循環の流れなのだ、と言う人もいる。
 だが、どの主張が正論であったにしろ、死によって取り残される悲しみが、正しさによって癒される、というほど、人間の心は単純ではない。

 母方の祖母の葬儀に参列したことがある。私と祖母は、2年に1度くらいのペースで会う程度で、別段に親しかった、というわけでもなかった。
 だが葬儀に参列し、いとこの女の子が号泣する姿を見て、涙が止まらなかった。単純なもらい泣きではない。どんな命にも、取り残される人と、その悲しみがある。そのことが悲しかったのだ。

 悲しみを乗り越える力を「強さ」と呼ぶべきなのかどうかは分からない。
 だが、人は死を通じて悲しみを知る。その「気づき」は強さ、と呼んでもいいのかもしれない。

 失うことで初めて知ることもある。それがいいことなのかどうかは別として。

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