2008年02月25日
ファーブルはなぜ下を向いたのか
『昆虫記』で有名なジャン・アンリ・ファーブルは、元々は博物学者であり、教鞭をとりながら、植物の研究に従事していた。 それが、幼少期の大自然での生活や、人生の中の様々な紆余曲折をきっかけにして、36年にもおよぶ壮大な昆虫研究へのめりこんでいくわけだが、じつはファーブルが昆虫に着目した“直接のきっかけ”に関して、今でも分からない部分が多い。 そのことについて谷丹三という小説家が坂口安吾へ当てた手紙があって、そこで谷は、ファーブルを昆虫研究に駆り立てたきっかけは、昆虫に「思想」を見たのではないか、と語っている。 要するに、前回の記事で、加島祥造さんが森の姿に人間を照らし合わせたように、ファーブルは昆虫の姿に人間を照らし合わせていたのではないか、と言うのだ。 人間でないものに人間の姿を顧みる、という自省心を持つのは簡単なことではない。 例えば、映画「アース」に出てくる動物たち。求愛のためにダンスの舞台を掃除する鳥や、子供の歩みが遅いのを心配して後ろを振り返る象など、彼らの姿はなるほど人間的だ。 だが、そんな動物の姿が「人間的だ」ということに気づくためには、途方もない歳月を賭した観察と、そこに人間性を見る想像力、そして何より動物の一挙手一投足と人間の姿を対比させ、分析できる知性が必要だ。 動物や昆虫の姿に限らずとも、この世に常識を凌駕した「神秘的なもの」は数多く存在する。 そして人間は、その神秘が、常識を凌駕し人間の手に負えないものである、と気づくからこそ、そこに畏敬の念を表し、それを守ろうとする。 だが、神秘的なものが「神秘的」である、と認識するためには、人間の常識や、何が人間の手に負え、手に余るものなのか、を理解するための、「知性」という土台が必要なのだ、ということに気づいている人は意外と少ない。 例えば、種から植物が生まれ、花が咲く。これは大自然の驚異の一つだが、ただ植物の姿を見せ「神秘的だね」と言っても、子供は理解できない。 その場合には、「なぜこんな小さな種から植物は生まれ、なぜこんなにも美しい花を咲かせるのか」それは大いなる謎なのだ、ということをまず子供に認識させ、植物のような成長は人間に可能なのか、ということを共に話し合い、植物はこんなに小さい種から成長するのに、翻って人間はどうだろう、ということを考えさせなければならない。 それが、神秘を「神秘である」と認識させる、ということなのだ。 大自然はその存在だけで、大いなる驚異だ。 だがその驚異に気づくことができるのは、それを「体験」した人ではない。 きちんと勉強をして、自然の姿に人間の限界を見て、絶望できた人だけなのだ。
- posted by よっひ~ |
- 21:57 |
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