2008年02月27日
戦争は「無意味」
『おおきな原野のミズナラの木』さんの「article 9」という記事を読んで、戦争について少し考えてみた。 ミズナラさんの指摘の通り、憲法を改定し、この国を「戦争のできる国」にしたい、という思惑を持っている人が、特に政治の分野で少なからずいるようだ。 なぜこの国を「戦争のできる国」にしたいのか。細分化すれば理由は様々に挙げられるだろうが、大まかに捉えれば、理由はたった3つで、 1、戦争による特需で経済発展が期待できるから 2、他国の情勢に積極的に介入できる大義名分を持つことで、国際競争に自主的に参加できるから 3、武力によって守られている、という安心感を与えることで、国民の政治に対する信用を調整できるから この3点に集約される。 だが、例えばアメリカを見てみよう。 先のアメリカ-イラク戦争は、イラクが大量破壊兵器を所有している、という大義があったが、じつはそれは表向きの理由で、じつはアメリカによるイラクの石油資源の奪取が目的だったのでは、という説が流れている。 実際にはどうだったのか、今でも確証は取れずじまいだが、例えばその仮説が正しかったとしよう。 では実際にアメリカはイラクの石油資源を獲得することができたのだろうか。 そんなニュースは聞いたことがない。 アメリカはイラクとの戦争で、国際情勢における何らかの利権や競争力を獲得できただろうか。いや、むしろ逆にアメリカはこの戦争で、国際情勢から非難を受けたのではなかったか。 戦争による特需で景気が良くなるのなら、果たしてアメリカは戦争を期に失業率や犯罪率が低下しただろうか。いや、そんなニュースも聞いたことがない。 戦争によって国民が政治に信頼を寄せるようになるならば、戦時中の狂乱的興奮が落ち着いた戦後、ブッシュ政権の支持率は引き続き上昇し続けただろうか。いや、むしろブッシュ政権の支持率は、戦後下降し続けたはずだ。 つまり、この国の一部の政治家が期待する、「戦争ができる国」にすることによる利権は、実際にはまったく手に入らないということが、つい5年ほど前に勃発した戦争によって、既に証明されてしまっているのである。 イデオロギーやヒューマニズムによる、戦争の可否は別として、戦争という行為は、対費用効果や合理性という観点において、まったくの「無意味」なのである。 イラク戦争よりさらに前、北朝鮮によるミサイル爆撃の恐怖が煽られ、日本もミサイル防衛の軍備をすべきだ、という議論があがったことがあった。 その時に、作家の村上龍は、「北朝鮮のミサイル爆撃は合理性の点においてありえない」と断じたことがあった。 なぜならば、日本には、爆撃して得られる「資源」がないからである。 例えば、日本に大量の石油や石炭や金が眠っている、というのであれば、国土の焼け野原にした後、ゆっくりと資源を採掘することができるだろう。 だが、日本の経済発展を支えた資源は「技術力という名の“人材”」と、「膨大な情報」であり、爆撃という打撃的な手段を取れば、人材を殺害し、情報データやツールは破壊され、北朝鮮にとってメリットのある資源を獲得することが逆に困難となることは、少し考えれば誰だって分かる。 だからそれが可能かどうかという観点は別にして、非効率でかつ合理的でない、という理由で、北朝鮮がミサイルを飛ばすことは絶対にない、というのが村上の理論だ。 戦争を否定する上で、最も論理的で合理的な解釈だと、私は思う。 「いい悪い」ということだけで戦争や改憲を判断すると、どうしても論拠薄弱となってしまったり、感情論になってしまったりして、戦争を止める手立てとしては弱くなってしまう。 憲法9条を守る、ということで言えば、戦争がいかに“合理性”という観点において「無意味」なのか、ということを、論理的に考察する姿勢も、大切なのではないだろうか。
- posted by よっひ~ |
- 21:53 |
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