2008年03月24日
「通り一遍のどこかで聞いたような論調」を繰り返さないために
茨城県土浦市で、無職の青年による無差別の殺傷事件が発生した。 この手の猟奇的事件におけるメディアの対応は“酒鬼薔薇聖斗”の事件以降一向に変わる気配が無いので、今回の事件も、通り一遍のどこかで聞いたような論調が繰り返された後、皆の心から忘れ去られていくのだろう、という一抹の諦念が拭えないが、それでも言及しておかなければならないことはある。 私は1紙からの報道しか見ていないが、速報であるにもかかわらず「ゲーム好きでキレやすい」という犯人像に言及している記事があった。 いわゆる「ゲーム脳」と猟奇的事件の犯人を結びつける論調はずっと前からあって、それこそ「通り一遍のどこかで聞いたような論調」に過ぎないわけだが、なぜ同じような論調が繰り返されなければならないのかというと、私たち、情報の“受け手”側が、メディアから提供される情報を咀嚼して、そこから導き出される真実に辿り着こうという意志を、いつまでたっても見せないからだ。 例えばゲーム脳で言えば、「犯人はゲームにのめり込んでいた」という「情報」があった場合、2つのことを考えなければいけなくて、まず1つは、「親がゲームを買い与え、それにのめり込ませるほどに犯人を放置していた」ということと、もう1つは「親や地域や社会の影響力が、形で言えばたかだか数センチ四方しかないゲームの影響力に負けていた」という事実だ。 ということは、「犯人はゲームにのめり込んでいた」という情報があった場合、それは「親や地域のネグレスト(育児放棄)の問題を言及すべきだ」と私たちは“受け手の義務”として捉えなければならなくて、じつはメディア側も、世論への反発を避けるために、あえて直接的な表現を避けているだけで、「本当はゲームのことなんて言いたいわけじゃないのに、なんで読者は気づいてくれないんだ」と思っている可能性だってある、ということだ。 言うなれば、「情報」というものは、「まだ炙り出しをする前の白紙の紙」と同じようなもので、炙り出して画を浮かび上がらせてこそ初めて表現として意味を成すのに、白紙状態の紙を見て、「白いな」だの「いやじつは白くない」などと論評しても、意味はないのだ。 環境問題でも同じことが言えて、例えばアル・ゴアが「地球温暖化が危険です」と言ったとする。その時私たちは、“受け手の義務”として、「温暖化が危険だ」という「情報」から真実を炙り出さなければならないのだ。例えばそれは、「アメリカの帝国主義をこれ以上のさばらせてはいけません」というメッセージかもしれないし、「アマゾン流域の原住民が家をなくして困っているので見に行ってみてください」ということかもしれない。 ただ一つだけ確かなのは、「地球温暖化は危険です」と言われて、「そうだね危険だよね」とか「いやいや危険じゃないよ」と言っているだけでは、良い悪いは別にして真実に辿り着けない、ということだ。 それは田中優の「メガバンクに金を預けると戦争に利用されます」という「情報」でもそうだし、IPCCの「地球上における二酸化炭素濃度が、ここ数年で急激に上り続けています」という「情報」でも同じだ。 とにかくどんな情報でも、ある情報がメッセージとして提示された場合、本当に知るべきことは、そのメッセージとは別に存在する、ということを知っておかなければならないし、私たちは情報の“受け手”として、そのような情報の捉え方をする癖をつけるべきだ。 まだこれからになるだろうが、土浦の事件においても、犯人の性癖とか、家族像とか、学校でいじめられていたとか、アニメの虐殺シーンに興味があったとか、うんざりするような「通り一遍のどこかで聞いたような論調」が、また繰り返されることになるだろう。 環境問題においては、「通り一遍のどこかで聞いたような論調」を繰り返すようなことは、あってはならないと思う。
- posted by よっひ~ |
- 21:59 |
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