2007年07月01日
動物愛護論①
動物愛護について考える。 これまでに乱獲や環境破壊によって住処を追われることで絶滅した種は、既に莫大な数におよび、そのすべてを把握することは、もう不可能な領域に達しているらしい。 この国においても、ペットにする理由で外来種を不法に輸入した上、それを捨てることによって生態系が破壊されるニュースは何度も耳にするし、現在でも全国の保健所では、「飼育放棄」により捨てられ、里親を待ち続けたり、あるいは最悪の場合「処分」される動物が後を絶たない。 動物だって、人類と同じ「地球」という船の乗組員なのだ、と考えると、現在動物は、児童労働や戦争難民以上に深刻な状況を生きている、と言っても過言ではない。 そもそも、命がまるで物のように取り扱われている、ということに根本的な問題があり、その問題の根っこは、「命に値段が付けられている」ということにある。 家畜として養殖される牛や豚を初めとして、像の牙や虎の毛皮、果てはペットとしてペットショップに並ぶ猫や犬の命そのものまで、動物のあらゆる部位、あらゆる種に、現在は値段が付けられている。 資本主義経済の常識で言えば、人は「同等値の貨幣を支払えば、その対価として物を所有する」ことができる。それはつまり、「それに見合う金さえ払えば、命でさえ自由に取り扱うことができる」ということになり、それが動物の命を、あたかも「物」のように扱ってしまう一番の要因になっている。 ではなぜ人は、命に値段を付けるようになってしまったのだろうという、その起源に目が向くが、その起源を追うと、猫よりも犬よりも豚よりも象よりも、まず最初に値段が付けられた種がある。 そう、それは人間。奴隷である。 貨幣と交換する、という意味での「人身売買」の起源は、猫や犬を売り買いするよりもずっと遅いかもしれない。だが、古くはピラミッドの時代から、人が人をあたかも物のように取り扱い、その取引があった、ということで考えれば、人は人を「物」として扱うことから始め、その歴史はもう何千年前にも遡る、ということが分かる。 つまり人類史から考えると、決して猟奇的で残酷な人間が命を物として取り扱ってきたのではなく、人は命を物として取り扱うということを、もう何千年も昔から普通のこととして繰り返してきたのだ、ということになる。 では命を物のごとく取り扱うことを肯定していいのか、と言えばそうではない。今まで常識のように取り扱ってきた事実が、常識であってはならないということに、人類はここにきて初めて気づいたのである。 戦争だってそうだ。人類の歴史は戦争の歴史である、と従来言われ続けてきた。戦うことが常識であった社会に、「戦争は常識であってはならない」という気づきが生まれたのは、たった60年ほど前のことなのである。 それと同じように、命を物として取り扱ってならない、そのことに人類が気づいたのはごくごく最近の話で、逆に言うとそれまでは、命を物として取り扱うことのほうが、むしろ社会の常識だったのだ。 こう見ると、戦争と動物愛護の問題は、根本的な部分で繋がっていることに気づく。動物愛護を考えることは、戦争を考えることであり、動物を守りたい、と願うことは、戦争をなくしたい、と思うことと一つだ、ということが分かる。 「特別悪い人間が事を起こしていたのだ」ということと、「今まで常識だったものが常識であってはならないことに気づいた」ということとでは、問題の立て方が根本的に変わってくる。 では、実際どのような問題提議と解決策を持ち込めばいいのか、という話になるが、それはまた次回。
- posted by よっひ~ |
- 22:26 |
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