2018年、日本は「放置国家」に!?

 10年後の世界環境はどうなっているのか、そのことについてIPCCなどで、様々なシュミレーションが行われ、試算が出されている。
 最良な結果から最悪な結果まで、私たちは10年後の世界を、シュミレーションと試算を通じて見据え、その結果を逆算し、今をどのように生きていけばいいのかを導き出している。

 翻って、この国の10年後はどうなっているだろうか。

 私はかつて、この国が衰亡するのであれば、経済的な廃退でも、環境の悪化でもなく治安に悪化によってであろう、という予測を立てていた(そのことは以前にも記事にした記憶がある)。教養の衰退と治安の悪化は、かつて「コギャル」と呼ばれていた世代が社会人になる時あたりにピークに達し、若者の暴徒化による事件や社会問題が、様々な場面で表出化されるだろうと思っていた。
 それに伴って私が一つ考えていたのは、「親子の殺人」が急増するだろう、ということだった。
 いわゆる「ギャルママ」のような責任感のない親が、子供を育てることで、子供や不良になったり引きこもりになったりして、それが原因で親が子を殺したり、子が親を殺すような事件が多発するのではないだろうか、と読んでいたのだ。

 だが今考えると、その予測は間違っていたのではないか、と思い始めた。

 現在でも、例えば夜中0時に渋谷に行ったりすると、平気で制服の高校生がたむろしたりしている。
 逆に平日の真昼間でも、制服の子供の姿を見かけることが全然不思議ではなくなったし、制服を着て、見るからに学生のはずなのに、髪型やファッションや、顔の造型がエグザイルみたいになっていたりしている子も頻繁に見かけるようになった。

 夜中に街をぶらついたり、平日に街中をたむろしていたり、不良を通り越して、もう学生であることを放棄したような格好をしていたり、そういう学生の存在が許されている、ということは、それだけその子は、親や、学校や、地域や、社会から放っておかれている、ということで、その傾向が加速すれば、今後10年で、「誰もが誰もを見捨てる社会」が来るのではないか、と考えるようになった。
 「法治国家」ならぬ「放置国家」の誕生である。

 誰もが誰もを見捨てる社会になれば、子供は気の合う仲間同士だけ、母親は母親同士だけ、と言った具合に、利害関係を共にする同士だけがコミュニティを形成し、外部との接触を持たない、小さな「閉ざされたコミューン」が大量に形成されることになる。
 そうなればまず、この国から「マナー」という概念が消滅するだろう。
 マナーとは、異なる考え、異なる利害を持った人たちが、共通に不快感を感じないようにするための最低限の暗黙の決まりごと、のことなので、そもそも異なる考えや異なる利害をもった人たちを接触を持つ機会そのものが存在しない社会になれば、必然的にマナーを知る必要性がなくなる。

 マナーが消滅すれば、必然的にゴミのポイ捨てや公共物の破壊は増えるだろうし、違法行為が幅を利かせるようになるだろう。
 自分がやっていることで困る人が現れる、という想像力どころか、自分たちと同じ考えを持たない人がこの世界に存在する、という事実そのものが目に入らなくなるだろうし、たぶんこの10年で、「割り箸を浪費するとCO2が増えて、故郷が海に沈む人たちが現れる」と説明しても「え?そんな人いるわけないじゃん、渋谷は海に沈まないし」という返答の仕方を素でする人たちが現れるような気がする。

 10年後、この国はどうなっているだろうか。
 こうしたい、ああしたい、という夢や願望ではなく、悲観論から楽観論まで、冷静に考えてどういうシュミレーションが成り立つのか。
 その客観的な予測は、環境問題とも決して無縁ではない。

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