エコとは寿命を全うすること。そのために・・・

 エコロジーとは「人類延命作戦」である、と、このブログで何度も言及してきたし、そのような考え方は、エコロジーそのものの普及と共に、徐々に広まりつつあるように思う。

 エコロジーの意義が「人類が生きながらえる環境を維持すること」であるならば、その目標は「まず今生きている人々が、すべからく寿命を全うできること」にあるはずだが、今生きている人たちが寿命を全うできるのか、という観点からエコロジーを捉えている人はあまり多くない。

 寿命を全うできる、という観点で考えると、そこには様々な要素が存在する。
 例えばお金がなければその日の食い扶持にありつくこともできないだろうし、友達がいなかったら一人暮らしで急に倒れたときに誰にも助けを求められず孤独死するかもしれない。会社の人間関係がうまくいかないと憂鬱になって思わず電車に飛び込みたくなってしまうかもしれないし、そもそも働いていないと周りの人間がすべて敵に見えてしまって強迫観念で自分の首を絞めたくなってしまうかもしれない。

 そう考えると、「今生きている人々が寿命を全うできること」という観点において、「地球温暖化で世界が砂漠化するかもしれない」とか「北極の氷が溶けて海域が上り、国土が海に沈むかもしれない」ということは、割と優先順位が低いのだ、と言うことが分かる。

 今日ふと、街に出ている「燃えるゴミ」の山を見ていて、まだまだ人々のエコロジーに対する意識は低いのだな、と思うと同時に、なぜいつまでも人々のエコロジーに対する意識は上らないのだろう、と考えて、たぶんより多くの物を破壊し、より多くの人々の心を蹂躙しないと、出世ができなかったり、会社で白い目で見られたりして、会社で生きていくことができず、要するに、破壊して、蹂躙しないと寿命が全うできないからなのだろうな、と思い至った。
 そこがおそらく、エコロジーと社会の関係に横たわる、もっとも大きな「ねじれ」なのだろう。

 控えめに、何も求めず、誰も傷つけず、何も破壊せずに、会社で儲けを出せますか。会社で何も儲けを出さず、会社で生き続けることができますか。会社で生き続けることができず、その日生きる金もないままに、寿命を全うすることができますか。自分の寿命が全うできない、と分かっているのに、世界のことを考えることができますか。

 そう考えていくと、普通に生きていて、エコロジーを考えることは、思った以上に難しいのだ、と気づく。
 そして、環境を考える上に優先的に考えなければならないのは、「普通の人が、誰も傷つけず、何も破壊せずに、寿命を全うできるライフスタイル」を築くことなのだ、と気づく。

 この国における、年間の自殺者は約3万人。おそらくこの3万人の人たちは、形はどうあれ、何者かに蹂躙され、何物かに破壊された人たちだ。
 これをゼロにすることが、何よりのエコロジーなのだ、と思う。

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