魂の居場所

 とあるヒーラーの人に、「自分の存在を受け入れてくれるから、という動機でスピリチュアルに傾倒するのは、間違っている」という意味合いのことを言われた。
 基本的に、正しいと思う。

 だが、「自分の存在を受け入れてくれる場所に依存する」ということは、それほどに間違ったことなのだろうか。
 例えば、スピリチュアルもそうだし、宗教や寺子屋やカウンセリングルーム、心療内科やNGOなど、一般社会から外れた人たちの受け皿となるべき存在が、もしその開いた手を閉じてしまったら、はぐれた魂は、どこへ向かえばいいのだろう。


 いまこの国は、一度“失敗”してしまったら、もう後はない、と言われる。敗者復活戦は存在しないのだ。
 しかしそれでも、“失敗”してしまう人たち、というのはかなりの数がいて、そういう人たちが、ひきこもりになったり、ニートになったり、自暴自棄になったりする。
 自分の存在には価値がない、と思っていて、自分の存在など誰も認めてくれないのだ、と思っている人たち。そういった人たちのための受け皿が必要とされていて、それを現在、宗教や心療内科や、あるいはスピリチュアルの思想が請け負っている側面がある。
 逆に言えば、一般社会で「無価値」の烙印を押された人々を受け入れる最後の拠り所として、宗教や心療内科やスピリチュアルは存在していて、だから、「無価値」の烙印をお押された人たちが、受け皿に救いを求めるのは当然の道理であり、その行為そのものを「甘え」と断じてしまうことは、その人の人間性そのものを否定することになってしまう。

 誰だって自分の話を聞いてほしいし、自分の価値を認めてほしいし、自分の存在を受け入れてもらいたい。
 誰だって、魂の居場所を求めているのだ。

 これからもっと、受け皿が必要とされる時代になるだろう。
 それに伴い、受け皿が受け皿であるために乗り越えなければならない課題も増えてくるだろう。
 基本的に何かに依存し、甘えることは間違っている、と分かっていても、依存や、甘えを受け入れてくれる空間が人には必要とされているし、平和や、調和や、真の愛が生まれる場所があるとすれば、そのような空間から、なのではないだろうか、と思う。

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