喜びは、悲しみの後に

 昨日の記事を書いた後、しばらくして、ふと
「喜びは悲しみの後に」
という言葉を思い出した。たしかバート・バカラックの歌のタイトルだったものだ。

 老子の言葉の中に、「美しいものは、汚いものがあるから美しいと呼ばれるんだ」というものがある。
 「善悪だって、悪があるから善と呼ばれる。「在る」も、「無い」があるからこそ在ると言えるのだ。お互いに、片一方だけでは決して存在し得ない」
 と、その言葉が続くのだが、それと同じように、人は悲しみを知るからこそ喜びを知り、悲しみの只中にいるからこそ、喜びを求める。悲しみと喜びは決して片方だけでは存在し得ない。
 そういう意味で、あらゆる喜びや幸せは、悲しみを種とし、悲しみを糧として、初めて花開く。幸せ“だけ”が存在する世界などありえないし、願えば願いは叶うにしろ、願いが“叶い続ける”世界などというものも、やはり存在し得ない。

 だから、悲しみを知らぬものが語る幸福などに、説得力も現実感もないし、だからこそ、「大丈夫」とか「頑張れ」などという言葉に、悲しみ、苦しみを知る人ほど拒否反応を示す。「お前なんかに、私の苦しみの何が分かるのか」と。

 「大丈夫」とか「頑張れ」とか「願いは叶う」とか「幸せになれる」とか「夢を引き寄せよう」とか「笑顔溢れる人生を生きよう」とか、いろいろな人がいろいろなことを言っている。そういう人こそ、まずは悲しみを語るべきではないのか。

 私は悲しいのだ。世界は苦しいのだ。心は痛むのだ。社会は冷たいのだ。どうにもできないのだ。どうすればいいのか分からないのだ。体が動かないのだ。声が出ないのだ。

 そのような悲しみを認め、受け入れ、それを糧にして語られる喜びこそ、真のメッセージ、となり得るのではないか。

 もうひとつ引用する。谷川俊太郎氏の『黄金の魚』という詩の一節だ。

 「いのちは いのちをいけにえとして ひかりかがやく
  しあわせは ふしあわせをやしないとして はなひらく
  どんなよろこびのふかいうみにも
   ひとつぶのなみだが とけていないということはない」
 
 悲しみという種子の蒔かれぬ土壌に、喜びという花が咲き誇ることは、決してないだろう。

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