願いが叶うとしても、順番的に私であることはありえない

 例えば、中東のある国で魔法のランプをこすった王様がいて、極東のある国でドラゴンボールを集めた少年がいて、西方のある国で天竺に辿り着いたお坊さんがいて、遥か西の国で神秘の力を持ったリングを手にした青年がいたとする。
 4人が一斉に、「世界の王になりたい」と願ったとしたら、この世界はどうなるのだろう。


 夢を見ることは、この世界で唯一誰にも侵害されることのない、万人に平等に与えられた絶対権利である。
 だが、夢を叶えたい、と思った場合、夢を叶える「優先順位」があるべきなのではないか、と思う。
 私も夢を見るし、叶えたい夢がある。だが、もし夢が叶うとしたら、私なんかよりも先に、アフリカで飢餓で苦しむ人たちや、チベットで迫害を受けている人たちや、上野で野宿をしている人たちの夢を先に叶えてあげてほしい、と思うし、世界の現実を見る限り、順番的に言って日本人が夢を叶えるのは、相当後回しでいいのではないか、と思う。

 この国の人が願う「夢」とは何なのだろう、と思う。
 今日の新聞に、「見るだけで幸せになれる魔法の本」とか「聴くだけで心が浄化されるCD」などという物の広告が載っていた。この本を読んだり、CDを聴いたりすれば、人間関係が良くなったり、金運がアップしたり、悩みや苦しみが消えたりするらしい。
 新聞にでかでかと広告が載るくらいだから、それなりに売れていて、本当に本を読むだけで幸せになれる、と信じている人たちがそれなりにいる、ということだが、じゃあその本を四川に持っていって被災者の人に読ませれば地震の被害も軽減するのではないか、と考えてふろしきに本を100冊包んで四川に飛ぼう、という人はいないし、CDをチベットに持っていって、いがみ合う僧と軍の両者に聞かせれば双方の心が浄化されて暴動は収まるのではないか、と考えて、ラジカセ片手にチベットに飛ぶ、という人もいない。
 そんなことをすれば、笑い話云々以前に、だたの不謹慎、ということになってしまう。

 つまりこの国の人は、夢を叶えたい、と本気で思っていて、これさえあれば夢が叶う、という物に本気になって食いついているが、物そのものの信憑性を信じているわけではない、ということだ。
 それはこの国の人たちにとって「夢」というものが、それほどに趣味的で軽々しいものだ、ということでもある。
 
 そういう意味で、この国の人はもう「自分が幸せになりたい」ということを考える必要などないのではないだろうか、と思う。
 既にこの国は、夢が趣味的な物になるほどに、平和で、満ち足りているからだ。これ以上に何を望むことがあるだろう。

 パワーストーンとか、幸福の壷とか、曼荼羅シールとか、いろいろな幸福グッズがあるが、本当にその物の効果がある、と信じるなら、そのグッズを購入した上で、例えばアフリカにそのグッズを送ってみたらどうだろう。もちろん、送り主の署名付きで。
 例えば、子供が飢えで苦しんでいる親子がいて、その子の手にパワーストーンを握らせて、「この石を持って強く願えば食べ物が空から降ってくるから」と面と向かって本気で言えるだろうか。
 もし本気で言えるようなら・・・それはそれで力になるかもしれない。

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Re:願いが叶うとしても、順番的に私であることはありえない
日本人が貧しい戦後から高度成長して行く時には明確に見られる「夢」もあったでしょうけれど、満たされたからこそ、何を夢見ていいか解らなくなって、誰もが迷っているのが今の日本の状態ではないでしょうか?
生活が満たされても満たされない心こそが、よっひ~さん言うところの「受け皿」を求め歩いたり、漠然とした「夢」を求めてしまうだけで、おそらく、読むだけで幸せになれると本気で思っていると言うよりは「心の飢餓」がそうさせるのだと思いますが…。

肉体的飢餓=身体的な命と背中合わせだけれど、精神的飢餓もまた、鬱から自殺へと至る事もある、命との背中合わせの危機的状況だと思うので、世界の現実と照らし合わせて、やたら日本の事を卑屈に考える事はないと、私は思うのですが…。

私には、時々よっひ~さんの記事がそういう風に読み取れるので…違ったらごめんなさいね。

あと、「叶えてあげて欲しい」って言うのも、何かちょっと違うかなって…。というのは、「王になりたい」と思った人が、その飢餓を救う力も同時に持てば済む話なので、まずは自分の夢を叶えれば、他の人を救う力も持てるようになる…と私は思うんですね。だから、誰がどんな夢を持っても、その人の人生だから、いいんじゃないかな。軽軽しいかどうかは、人が決めることじゃないと思うし。
私も自分を犠牲的に生きてきたからこそ、今やっとそう思える事なんですけど。
Re:願いが叶うとしても、順番的に私であることはありえない
>>mikoさん

 そう思いますよね。卑屈になっているのは自分自身なんです。

 このブログでも何度か「幸せになってしまったら、何か大切なものを失ってしまいそうな気がする」という表現を使ったことがあります。
 例えば、今ブログをやっている某知り合いが、「みんなの記憶の中から私の存在が消えてしまえばいいのに」って言ってるんです。
 2年前の自分なら、たぶんその人の気持ちが、自分のものとして受け入れられたのに、今だとたぶん「甘えるな」とか「頑張れ」とか「そのうちいいことあるよ」なんていう言葉しか出てこないような気がするんです。
 
 「みんなの記憶の中から私の存在が消えてしまえばいいのに」と心の底から思っている人がもがき苦しんでいる様から見れば、自分や他の人たちはなんてぬるいんだろう、って思って、自分がもうその「他の人たち」と同じフィールドにいるのかもしれない、と思うと、もう2度と“暗闇”に手が届かないんじゃないか、という気がしてしまうんです。
 その「もう2度と“暗闇”に手が届かないかもしれない」というのが、私の求めた幸福だったのか、と思うと、幸福の意味、って何なのだろう、と。

 もう一度、原点から問い直さなくちゃいけないんです。何より私自身が。
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