子供のような願い、そして悩み

 何かが、食い違っている。


 この世界の人たちが、もっと優しくなったらいいのにな、そう思っていた。
 この世界の人たちが、もっと物や人を大切にして、あまり人を傷つけず、誰かと争ったりせずに、生きていけたらいいのにな、と思っていた。
 誰もわがままを言わないで、誰も傷ついたり苦悩したりしないで、人間関係とかそんなことで変に気を遣ったりしないで、死にたいと思ったり、家に引きこもったりする人がいなくなればいいな、と思っていた。

 原点は、そんな子供じみた願いのはずだった。


 はじめエコロジーに興味を持ったのも、そんな願いを共有し、優しい世界を作ろうとしている人たちが、エコの世界にはたくさんいるのだろうな、と期待したからだった。
 しかし、CO2を減らしさえすれば良いと考える風潮、熱に浮かされたように考証も分析もなくシュプレヒコールを上げる人々、世界を変えようとやっきになる裏で、置き去りにされ忘れ去られていく人たち。そのような物事を見ていくうちに、どうも環境保護と優しい世界を築く、ということは別に考えなければいけないようだ、と思い至った。
 そして興味を持ったのがスピリチュアリティで、世界の皆が、マザー・テレサや、ダライ・ラマや、ブッダや、老子や、ホピの一族の教えを見直し、グレイトスピリッツや超越的なものに対する畏敬の念を持つようになれば、世界はもっと優しくなるのではないか、と考えたのだが、どうもオーラとか天使とかチャクラとか、そういったものに傾倒する人たちは、現実を飛び越えたどこか遠いところに行ってしまうようで、本当に傷つき、苦悩する人々を置き去りにしてしまう、という意味で、スピリチュアリティも何かが違う、と思い始めた。
 社会問題に切り込み、事件や、問題を通していろいろなことを考えてもみたが、昨日の記事がそうだったように、現実の問題にメスを入れるとなると、そうしても誰かを敵に回したり、愚劣なアンチテーゼに陥ってしまう。

 どうすればいいのだろう、どうするべきなのだろう、正直、最近は分からなくなってきている。


 皆どうしてエコロジーに興味を持ったのだろう。皆どうして天使に会おうとするのだろう。
 何を思い、何を願い、どういう世界を夢見ているのだろう。

 とにかく私は、自然を大切にするあまりに人々が憎しみ合う世界とか、天使が見える見えないで、救われる人種と見捨てられる人種が分けられる世界とか、涙する人たちを置き去りにして、みんなで熱狂して社会を変革しようと熱を上げる社会とか、オーラが乱れているからという理由で「地獄に落ちる」と平気で言われてしまう社会とか、そういったものが嫌なのだ。

 何を問題点だと感じていて、その解決のために何をすればいいのか、そのことが見えなくなってきている。
 もう一度考えよう。エコなのか、スピなのか、それとも他の何かなのか。

 皆が優しい世界になれる、そのために必要なのは。

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コメント

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Re:子供のような願い、そして悩み
こんばんは。
子どものような願い。それでいいんじゃないでしょうか?私は子どものころから誰かに守られてる感じがしていました。
私にとって神はいつも傍にいますが、いわゆる何宗というものではありません。
傷ついたり傷つけたりして失敗もたくさんしていますが、すべてが必然で自分が向上するための学びなのだと思います。自分が出来る事を少しずつしていって、自然=地球に優しくすることが(エコ)が愛であり、愛がみんなを幸せにする光を放ちます。赤ちゃんは何もできないように見えますが、顔世(がんせ)といって周りを幸せな気分にしてくれます。いわば宇宙の定理とでもいうのでしょうか?
すべての宗教に通じることと思います。

いろいろな人から宗教に誘われますが、自分たちだけ助かるような言い方をするところは「嘘」です。
年を取るということは経験をつむことと、本物偽者を見極める目を持つことでは無いかと思っています。
すべてが必然であり、人は死ぬまで勉強(学んで)していくものだと思います。
Re:子供のような願い、そして悩み
お久しぶりです。

まず、よっひ~さんのような「大人」が、「子供のような願い」を持っていることを、嬉しく思います。
ただし、それが「子供のような」願いなのかどうかは、丁度青年期である私には、判断がつきません。
大人だから真剣に考える願いなのではないかと。
子供が漠然と思うものと、大人であるよっひ~さんがそう考えることとでは、小さな(いや、大きな)違いがあるように思えるのです。
私も時々分からなくなります。
「みんな」はそういうこと(=世界中の人たちが優しくなったら、ということ)を願ったことがあるんだろうか、と。
他人の心は読めません。もしかしたら、みんな、一度はその願いを真剣に考えたことがあるのかもしれません。それなのに世の中が「優しく」ならないのはなぜなのか? ……漠然とした願いだからだろうか。私は本当に行動しているんだろうか。私は本当に思い、悩み、願っているだろうか。

そう考えると、修正が不可能になってきているのではないか、とも思うのです。そうして諦観する人も増えているのではないかと思います。
最近、自分の性格がもう確立されていることをはっきりと意識するようになりました。どうしてもずっと笑顔でいるような「いい人」にはなれない。優しい人になれない。どうしても利己的になってしまう部分がある。そして、私の考え方や性格に両親から引き継いでいる部分が多いことを、自分の言葉の端々から感じるようになったのです。

一人一人が物を、人を、自然を、その他色々のものを、大切にする世界。大切にしよう、大切にするべきだ、という信条は、性格に出ます。もしみんなが周りを大切にできる人ばかりになったら、きっと似たような性格の人がこの世界に溢れます。それは果たして可能なのでしょうか。
自分が楽しければいい、そう信じている友人がいます。彼女は強い人です。本気で「自分が一番大切なのだ」と言い切れる人です。嫌いな人間はどうでもいいと、はっきりと名言する人です。それをはっきりと態度に表す人です。
周りを大切にすることが正しいと信じる人もいれば、正反対の人もいる。人は親から受け継いで、周りからも影響を得て、ある性格を持ちますが、それはもう脈々と受け継がれているものが大きく作用していて、この世界の一人一人が少しずつ周りを気にかけるような、そんな「いい人」ばかりになるのは不可能なのではないか、と、そう考えてしまうのです。


長文失礼しました。一気に書いてしまったので、分かり難い部分、文法上間違っている部分は多々あると思います。申し訳ありません。
私は半分半分です。希望と諦め、両方を持っています。希望のみを持てる人間になれないのです。その希望を信じられる人になれないのです。
どうしても、なれないのです。
Re:子供のような願い、そして悩み
よっひーさん、ごぶさたしています。今朝方、かえって来ました。

「人は、優しくなれないのか」、なれます! ただ、いつ、どうやって、やさしくなればよいのか、を、もしかしたら忘れてしまったのかもしれません。

心を開いて、そのPureな心のままに行動することが、愛であり、喜びであるということ、そしてその行動=愛と喜びが、周囲の人や自然を愛と喜びで包むことを、みなが最初は意識して、次第に意識せずに、できるようになるとよいですね。

せめて私たち(=気づいている人)は、心からの思いやりをもって、毎日を生きていきましょう。その日々の積み重ねが、いつかは大きな渦になることを、心から信じて。

きっとその姿勢が、渦を大きくしていき、いつかは大きな海になるでしょうから。

ではでは。
Re:子供のような願い、そして悩み
>>ふとっちょ母さん さん
>>無琉 さん
>>みのり さん

 コメントありがとうございました。
 しばらく経ってしまいましたが、しっかり拝読させていただきました。

 結局、何を信じて、何を選択しても、自分は自分なんだなぁ、と思います。
 あまり社会がどうこうとか、言わないようにしようと思いました。
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