「排除型社会」の未来

 昨日の通勤だけで、3件の人身事故のニュースを目撃した。昨日だけで3人の方が亡くなったわけだ。

 新聞によると、年間の自殺者が10万人を超えてから、もう10年が経つと言う。いつの間にかこの国の失業率は4%を超えていたし、秋葉原の事件を後追いするかのように、ナイフを使った凶行が後を絶えない。

 今日、図書館で『排除型社会』という本を目にした。その本を読んだ、というわけではなかったが、現在を端的に表現する言葉として、「排除型社会」は的を得ているな、と思った。
 結局今のこの国における様々な諸問題の根本は「誰かが誰かを見捨てるような社会となり、見捨てられた人間の受け皿が整備されていない」という、その一言に尽きる。
 周りと同調できなくて排除される人、競争についていけなくて脱落する人、子供に金と物だけ与えて子供の存在をさっさと排除しようとする親、国民の義務から脱落し自暴自棄になるニート、誰からも受け入れられず世界から見捨てられたと感じる引きこもり、・・・
 現代社会は、「汚い物、異なる物、ずれている物、邪魔な物」をどんどん排除し、まるで無菌室のような「純潔な個の領域」を守り抜こうとする社会・世間・企業、そして個人によって形成されている。
  そして「排除されなかった人々」と「排除された人々」が、それぞれに異なったルールによって社会を形成している。

 排除された人々は行き場を失い、ある人は職を失ってホームレスになったり、ある人は線路に飛び込んだりし、そしてある人は社会のすべてを憎悪し凶行に走ったりする。
 エコロジーに関して言うならば、エコロジー(というより世界全体の問題に目を向けられる余裕)は、「排除されなかった人々」の特権となっていて、「エコロジーに目を向けられる余裕のある人々」と「それどころではない人々」で、社会は分断されようとしている。
 エコロジーに目を向ける余裕のない「排除された人々」は、未来に希望を見出すこともできずに、これからも大量消費を続けていくだろう。そして、分断が広がれば広がるほどに、エコロジーは「特権階級の勲章」のようなものになっていき、国民全員の意識ではなく、特権階級者のステータスとして一部の人間だけに機能するようなものに変質していくだろう。


 「排除型社会」を止めるには、人々の“モラル”として、人を排除しないようにする「教育」が必要なのと、万が一「排除」された場合の「セーフティネット」を整備する必要がある。
 そのために一人ひとりは何ができるのか。

 エコロジカルな社会を実現するためには、その“土台”として、築いていかなければならない課題がたくさんあるのだ。

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Re:「排除型社会」の未来
何故だか解りませんが、いつの間にか世の中が極端に分かれてしまったんですね。昔のフランスの様に、エコを芸術と捉えて金持ちがドームを作って自分の周りだけに自然を保たせる世の中になるのかなと思います。それに、もう弾かれた人たちの助けをする事すら出来ないくらいに切迫しているんだと思います。
Re:「排除型社会」の未来
>>ゆたかさん

今『蟹工船』が再評価されている、という話がありますけど、昔と今で違うのは、貧富の差がどんなに拡大されても、もう団結して革命を起こそう、という動きにはならない、という点なんですよね。
まるでクッキーを砕いたときみたいに、弾かれた人たちが、さらに弱い人たちを探して、どんどんどんどん勝ち負けが細分化されていく。
最後には雲霧消散して、消えていく運命なんでしょうかね・・・。
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