2007年07月28日
隔離された環境教育
「環境教育」の必要性が叫ばれている。 こと都市部の子供たちは、日常生活の中で自然と触れ合う機会が失われつつある。そこで、学校や自治体やNPOなどが中心となって、林間学校や体験授業を通して、こどもたちに自然と触れ合う楽しさ、そして自然の大切さを学んでもらおうと工面している。 またそれとパラレルに、動物を触れ合う機会を通して、いのちの大切さを学んでもらおう、という動きも現在は活発なようだ。 だが、そのように「自然と触れ合う」「動物と触れ合う」ということを考えた時に、その「触れ合い方」はどのようになっているのだろう、と考えさせられるものを立て続けに見ることになった。 まず1つは、電車の中吊り広告で、日光かどこかのホテルの広告だったのだが、まるで古城を思わせる荘厳かつ巨大な建築物の裏に、森林が映し出されていて、「大自然と触れ合う上質なひとときを」というコピーが付されていた。 もう1つは新聞の記事で、どこかの水族館か動物園の企画なのだと思うが、縄と檻で厳重に隔離された空間の中に、あざらしが1匹鎮座していて、子供たちが縄越しに行列をつくり、おそるおそるあざらしの背中に手を触れる写真が掲載されていて、「動物とのふれあい、こどもたちの思い出に」という題が付されていた。 この2つの例は、環境教育の訴える「自然との触れ合い」「動物との触れ合い」を体現している、ように見えてじつはまったく「ふれあい」になっていないことに、少し考えれば気づくはずだ。 大自然を不自然に切り取り、そこに頓挫した人間のための空間から、まるで文物のように眺める大自然。隔離された牢獄越しから動かぬ動物にただ触るだけの触れ合い。 このような触れ合い方が、「自然との触れ合い」「動物との触れ合い」というテーマに合致していて、これで自然の大切さやいのちの大切さが伝わるんだ、と万が一考えているのであれば、環境教育そのものがまったく意味を成さないことになる。 そこまで極端ではなくても、例えば学校主催の林間学校で、キャンプ場に携帯ゲームを持ち込み、立派なユースホステルに泊まり、夜は電灯が煌々と照らされるような場所で、それでも「自然のある場所で活動したから」林間学校としての意義は成立したのだ、と臆面もなく豪語するような学校は現実にありそうな気がする。 こどものうちから環境に関わることの重要性に、否を唱える者はいないだろう。だが、その「関わり方」を、私たちは再考しなければいけないのではないか、そんな気がする。
- posted by よっひ~ |
- 08:50 |
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- 十五歳から見て
- こんばんは。こちらに伺うのは初めてですね。夢現のむるです。
私は現在都内の私立高校に通っていますが、高等学校になると既に「環境」についての教育はありません。では、一体いつまで「環境」に関する教育を行うのか。
義務教育でも「環境」問題などはあまり深くは取り上げられないのが現実です。私の母校では林間学校すらありませんでした。自然と触れ合う機会は生徒の意思で決定する選択科目の中のみにあり、生徒の意思によりどの程度の学習をするかが決められます。中等教育で求められるのは、あくまで受験の為、社会科の中の「近代の環境問題」や「地理」の知識のみといっても過言ではなく、私達の頭の中には現実感のない大自然や、緑や、砂漠となった土地が残されているのみです。
しかしながら、数年前から開始された「総合的な学習の時間」の中で、「フィールドワーク」を含む自由課題が課されました。テーマは「環境」。これは各学校、地域によって力の入れ方が異なるのだと思いますが、私の母校では1年で花の栽培、2年で環境、3年で伝統文化、というように段階が決められていました。受験にも縛られず、小学生から抜けきれていないわけでもない第二学年で学ぶというのは工夫と取れるのでしょうか。
私はフィールドワークでは薬品を持って地域の雨を集めて回りました。その他の時間は酸性雨についての情報を収集しまとめることに力を注ぎました。そのように週三時間程度の僅かな時間の中で、それぞれの小テーマを決め、五月~十月の間学習をしました。私が環境教育について深く学んだのはその数ヶ月だけであったと思います。
義務教育内で環境教育をすべきと考えても、やはり小学生のうちにしかそれは実現できそうにありません。小学校でさえ、現在は中学受験の為、算数、英語に力を入れている学校も少なくありません。
学力低下と騒がれれば騒がれるほど、大人の目は学力に逸れていきます。
時間がない、時間がない、そう言って実際に環境と触れ合う機会を減らすのは、大抵の子どもが自然に興味が薄く、すぐに忘れてしまうからです。やるからには徹底的にやらなければ子どもの心には到底残らない。高校生になった今、強くそれを感じます。私は自然に触れ合った経験が非常に浅いです。いわゆる受験知識としての環境問題ばかりを覚えています。中途半端な「触れ合い」を行うのであれば、いっそのことその時間を他のことに使うべきだと考えてもおかしくない。やるなら徹底的にやらねばなりません。でもそのための余裕が教育側にはないのではないかと、素人目から見て感じています。
この記事の本題からは大幅に逸れてしまいましたが(汗)、これで失礼致します。
長文申し訳ありませんでした。 - posted by むる |
- 2007-07-30 22:48
- Re:隔離された環境教育
- おおお、こっちにも来てくれたんだねー。現役の高校生の意見は非常に貴重です。ありがとう。
東京は特に自然に触れる機会が少ないんだろうと思います。私は、実家が千葉の田舎のほうなので、小学校のころは、学校のすぐ裏に森があったりして、割と自然は身近な存在だったんです。
今はあらゆるものが「イメージ」として語られます。自然や環境、と言われてもイメージでして捉えられない。
逆に、受験で問われる「学力」というものも、じつはイメージでしかありません。勉強で学ぶ力と一言で言っても、語学力や理論力、洞察力や分析力など多岐にわたるはずで、「じゃあ受験で問われる“学力”って一体何?」と問われても、答えられる人はほとんどいないと思います。
想像力は本来人を自由にするものですが、イメージが人を縛り、人を傷つけるものになってしまった。そこに不幸の種は潜んでいる気がします。
命や自然を、イメージではなく、現実として捉えること。それが最も重要なことであって、無琉さんの言う「徹底的にやる」っていうのは、そういうところなんじゃないかなぁ、と感じます。
こちらのブログのほうが最近は精力的なので(バトンはちゃんとやります(汗))、また遊びに来てください。 - posted by よっひ~ |
- 2007-07-31 21:37


