2007年06月19日
鎮魂歌〔レクイエム〕
『悲しみに寄り添うカウンセリング』という本を読んでいる。これは人間の悲しみや苦悩を「慟哭」というキーワードで捉え、カウンセラーの目から見た、現代を生きる人々の姿を炙り出した本だ。 「慟哭」、深い悲しみや苦しみは、時間や空間を越え、人々の「今」に暗い影を落とす。言葉にならない叫びは、人の精神ひいては体をも縛りつけ、それは10年20年、いや一生かかろうとも、その人の心から離れることはない。 私は以前他のブログで、そのような、心に深い悲しみや苦しみを持った人の存在と、環境保護活動を結びつけて考えたことがある。かなり長いが、ここで全文引用してみる。 ●●●●●●●●●●●● 『百年の愚行』という本がある。この100年、我々人類はこの星に何をし、何を残してきたのか。環境破壊、戦争、貧困、・・・科学と経済の世紀がこの星にもたらした傷跡の数々を、数多の写真家の記録によって構成した写真集である。 それとは別に、私事ではあるが、友人の一人がある宗教の信者であることが分かったので、今その宗教について勉強をしている。 勉強をしていると、環境保護活動と、宗教の信仰には共通点があることが分かる。自らの行いを不確定な未来への投資としていること、深く入り込めば入り込むほど視野が狭くなる恐れがあること、同じ考えを持つ者同士が結託する傾向を持つこと、いろいろあるが・・・ 何より大きいのは、個人的な贖罪意識がその出発点となっていることだ、と思う。 環境保護も、宗教の信仰も、まず何より、自分が罪を犯している、誤った道を歩んでいる、そういった罪意識が原点にあり、そこから次世代のために行動を起こすことでその罪を償おうとするのか、あるいは神に対する信仰によってその罪を償おうとするのか、その方向性の違いによって道が分かれるだけで、根源は同じものなのではないか、と思うのだ。 だからこそ、絶望や苦悩を感じたり、孤独や憂鬱に悩んだり、自らの罪意識に喘いだりしたことのない人は、必然的に環境保護や宗教に自らのアイデンティティを求めるようなことはないだろうし、そういう人たちはむしろ幸せな人たちなのではないだろうか、とも思う。 だからこそ私も、環境保護や宗教の活動そのものよりも、最近は、なぜ環境保護や宗教に興味が向いたのか、その心境の動向に興味がある。 結局は、人の心の問題なのだ。そう思う。 ●●●●●●●●●●●● このような考え方を持って環境保護活動に臨んでいる人が、多数派なのか少数派なのか、私には分からない。 ただ、自らの心の内に潜む悲しみや苦しみに対して、地球という「母」へ懺悔し祈りを捧げることで、「慟哭」を鎮めようしている人は確実にいて、そのような贖罪意識を持つ人が、環境保護活動を通じて繋がることで、「母」へ、そして自らへの大きな祈りになると、私は信じている。 『悲しみに~』では、鎮魂歌(レクイエム)を心の内奥に響かせ、悲しみや怒りを鎮め安息を得る必要性を説いている。 きっと、地球にも、人々にも、私たちにも、今、レクイエムが必要なのだろう。 レクイエムを、歌える人になりたい。
- posted by よっひ~ |
- 19:39 |
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