エコという病理

 昔、オウム真理教の事件が世の中を騒がせていて、メディアや報道がオウムの残虐性を煽っていたことについて、「そういった、何にでも“正義と悪”“味方と敵”を分けて考えよう、という二元論がオウムという病理を生み出したのだ」という言説があった。
 私も、物事を“味方と敵”に分ける考え方がどうしても好きになれない。

 例えば、今で言うと「エアコン」がそうで、エコロジストの中では、エアコンを付けるのは悪いことでエアコンをつけないことが正義なのだ、というような論調を多く見かけるが、エアコンを付けるのはそんなに悪いことなのだろうか、という疑問がある。

 例えばエアコンを発明した人は何を思ったのだろう。エアコンと言う装置を発明した時、おそらく彼はこれで暑さに苦しむ人を救えるだろう、子供たちに今よりもいい未来を残せるだろう、と喜びに打ち震えていたはずだ。
 エアコンの発明者が存命なのかどうかは知らないが、彼が死ぬときには、子供たちの笑顔に囲まれながら、「私はこの子供たちに、快適な未来を残すことができたのだ」という誇りを胸に、安らかに死んでいくのだろう。

 ダイナマイトを発明したノーベルは、自らの発明が大量虐殺に利用されることに胸を痛め、ダイナマイトの発明によって得た莫大な資産を元にノーベル賞を設立した。それでもダイナマイトによる虐殺は止まらなかったわけだが、ノーベルは「良いことをしたのか、悪いことをしたのか」と言われれば、「良いことをしたのだ」と断言していいだろう。
 それと同じで、結局エアコンは大量の電力を消費し、環境とオゾン層を破壊する原因となってしまったが、だがエアコンが発明されたことが「良いことか悪いことか」と問われれば、やはり「良いこと」であることに間違いはない。

 勘違いしないでほしいが、私は「だからエアコンをがんがん使ってもいいではないか」と言いたいのではない。
 エアコンの使用はリスクを伴う、ということを理解したうえで、エアコンの存在意義だけは認めるようにしないと、「エアコンは敵だ」という二元論に繋がってしまい、結局それが「エコロジストだけが味方、世の中の人間はみんな敵」という拡大解釈に結びついてしまうと、ついには「エコという病理」と世の中から呼ばれるようになってしまうのではないか、と思うのだ。

 例えば割り箸は敵なのか、プラスチックは敵なのか、レジ袋は敵なのか。
 そして、そんなに血まなこになってまでして「敵」を設定して、我々は何をしようというのか。
 世が暴走するこんな社会だからこそ、エコについて考える時には、「自制の心」が必要なのではないだろうか

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