はじめには、森ではなく木があったのだ

 立教大学のキャンドルナイトに参加して、一つだけ気づいたことがある。
 救いとは、「音」だったのだ。

 礼拝堂でのミサは、「立教学院諸聖徒礼拝堂ハンドベルクワイア」(要するにハンドベルサークルのこと、だと思う)によるハンドベルの演奏からスタートした。
 静粛な礼拝堂に響き渡る、透き通ったハンドベルの音色。その演奏を聴きながら、「ああ、真の信仰を持つ人ほど、この音色に包まれた時、「赦された」と感じられるんだろうなぁ」と思い、それを感じた瞬間、メロディや楽曲ではなく、「音」こそが救いとなるのだ、と実感した。

 つまり真の救いを求めれば求めるほど、それは「原初的な」ものに近づいていくのではないか、ということだ。楽曲よりも音、言葉よりも声、歌よりも叫び。

 私たちは物質的に恵まれることを求めすぎたことによって、心や、あるいは美しい環境を失ってしまった、とよく言われる。しかしてその実体とは、理論や、情報や、形に囚われることによって、「原初的なもの」を失ってしまった、ということではないだろうか。
 大層なご高説よりもまず種を植えること、数時間に及ぶ大曲を作り上げることよりもまず美しい音を奏でること、1000の言葉を並べるよりもまず笑うこと。経済的に後退する、ということではなく、「原初的な救い」を取り戻す、ということが、これからの世界には、大切なことになってくるのではないか、そんな気がする。

キャンドルは祈りに乗って

 立教大学に行ってきた。
 立教大学では夏至に一日先立って、キャンドルナイトのイベントが行われたのだ。

 立教大学は、日本でも有数のキリスト教系大学として知られる。最近鎮魂歌やらSalvationやら、何かと宗教的な話題が多かったので、キリスト教の信仰を持つ人が、キャンドルナイトをどのように捉えているのか、興味があったのだ。

 イベントは大学内の礼拝堂で行われた。キャンドルナイトだからと言って、何か特別な行事を差し挟むこともなく、通常のミサのような感覚で、イベントは進行していった。
 礼拝堂でのミサが終わると、外に出て、フェアトレードのコーヒーをご馳走になったり、参列者で自作の詩を書き合ったりして親交を深めつつ、20時には大学全体が消灯し、キャンドルの灯りだけで歓談する形でイベントは終了した。

 キリスト教ならではの、キャンドルナイトに対する考え方や理念が聞けたわけではなかったが、礼拝堂でのミサは粛々と行われ、立教大学生の崇高な信仰心を垣間見たような気がしたし、久しぶりに大学生と親交が持てて、なかなか楽しい時間がすごせた。

 明日はいよいよ夏至、どれだけの祈りが、この国を包むのだろう。