2007年06月25日
叡智の結晶としての最終戦争
キリスト教には、「アルマゲドン」という思想(概念?)がある。人類の最終戦争において、初めて神が現世に光臨し、そこで人類に裁きを与える、というものだ。 この最終戦争という思想は、何もキリスト教のみに限らず、例えば仏教でも日蓮宗などでは、最終戦争の存在が示唆されているらしい。 何が言いたいのかというと、キリストであれブッダであれ、この世の神たちは、その叡智を持ってしても、「最終的に人類は戦争を放棄するだろう」との考えには至らなかったのだ。それほどまでに、ある時代までは、戦争というのは人類にとって身近なものであり、人類そのものの「業」である、と考えられていたのだ。 人類史で言うと、19世紀に発生した産業革命により、科学が発達したことによって、宗教観が人類の中から薄れていった、と言われている。要するに今まで「神の力」として説明されていたものに科学的な根拠が実証されたため、「神の力」を信じる余地が少なくなった、ということだ。 この時点で、哲学的な人生訓や精神論は別にして、単純な「知識量」においては、人類は神を上回った、と言っていいのだろう。 だがそれでも戦争はなくならなかった。そして現在も、戦争はなくなっていない。 科学の発達により、人類は神以上に世界のことを知ることができた。それに加えて哲学の伝承は、当時の神以上の叡智を人類に与えているはずで、しかも私たちは2度におよぶ世界大戦を経験したことによって、戦争の愚かさ、悲しさを身をもって知ったはずなのだ。 それでもまだ戦争は終わらない。 何を考えているのかというと、基本的に私たちは、人間を戦争に駆り立てるのは、「知性の暴走」であったり、「知性の欠如」である、と思っている。 だがその前提はじつは間違っていて、人間は、その類稀なる叡智を持って、熟慮に熟慮を重ねたあげく、“自主的”に戦争という行為を選択しているのはないか、と考えたのだ。 そうなると、「戦争は愚かな行為だから、戦争は止めよう」と訴えることや、「良心と対話を以ってすれば戦争は終結する」という考えは意味を成さないことが分かる。「戦争は愚かな行為だと分かっている、悲しいことだと分かっている、ただ私はこの叡智を以って、なんとしても、どうしても、進んで戦争がしたいのだ」という人々が、戦争を動かしている、ということになるからだ。 いまだに人類は戦争を放棄していない、という意味では、「戦争はなくならない」と予見した神たちの見識は間違っていない、ということになる。いまだに人類は西遊記の孫悟空のごとく、神の手のひらで戯れているだけにすぎない、と言えるし、最終的な平和とは、その手のひらを抜けたところにあるのだ、とも言える。 人類は神を越えられるか。それもまた、人類にとっての命題、となるのだろう。
- posted by よっひ~ |
- 14:37 |
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