2007年07月02日
動物愛護論②
「かつては常識であったものが、常識であってはならないことに気づいた」という問題提議をする場合、まずはっきりしているのが、「過去から未来へ」時間の概念がそこに含まれている、ということだ。 そこで考えるのは、例えばこの国で、物を扱うがごとく、動物を投棄するのはどういった人たちなんだろう、ということだ。 まず明確なのは、動物を捨てるのは「大人」だ、ということだ。こどもは良心に溢れているから動物を捨てるなんてことはしないだろう、ということではなく、単純にそこまでの手続きを踏める能力がない、という意味で、子供が動物を捨てる主体になっているとは考えにくい。 続いて、動物を「捨てられるもの」という程度にしか思えないにも関わらず、それを飼おうという発想に至る人たちはどういう人たちなんだろう、という疑問があって、動物を「買う」という時点でその程度にしか動物を見ていなかった、ということで考えれば、それは、ある程度の裕福層であろうという推測が立ち、ビジネスにある程度成功した人か、あるいは中高年、という仮説が成り立つ(なぜ“仮説”どまりなのかというと、そういうことを調べた統計が存在していないからだ)。 ただ、ビジネスで成功する、と言っても、株で大もうけしたというような特例を除けば、やはり成功にも歳月が必要だ、ということで、結論を言うと、この国で動物を物のように投棄しているのは、「裕福な中高年層」だろう、ということになる。 ここには重要な視点が隠されている。冒頭に言った、「常識が非常識に取って代わる」と言う時間感覚。そして、動物を捨てているのは「中高年であろう」ということ。 この2つを結びつけると、「中高年の世代には、(おそらく戦争体験の名残などもあって)命を物のごとく取り扱うことが、まだ常識の欠片として残っており、それが若い世代になるにしたがって、非常識として認知されるようになった」という時間的な経過が浮かび上がってくるのだ。 ではそれが分かったところでどうすればいいのか。 通常、「教えを乞う」という行為は、年長の者から年少の者へと為される行為だ。だが、「常識が非常識になった」という変遷を辿ったものに関しては、正解は常に「現在」にあり、それを考えると、「若者が中高年に現在の新しい常識を教えていかなければならない」のだ。 だからこそ、若い人たちが中心となって、中高年のペットを飼っている人たちに、命の大切さを教える機会を設ければいいのではないか。 具体的にどうすればいいかは、多論あるだろうが、私がぱっと思いつく分には、若い人たち(10代が一番影響力があると思う)がチームを作って、ペットの飼う人たちが集まる公園や空き地に出向き、「私はペットの命を大切にします」というステッカーを、ペット連れの人に配って回り、NHKのシールよろしく、家のポストの前に貼ってもらうなどしてもらってはどうだろうか。 もしその後、動物を投棄しようなどと考えても、そのステッカーが家の前に貼ってあるという世間体、そしてその時の若い人たちの交流を思い出してもらえれば、ペットを捨てようと思う人も、少しは減るのではないだろうか。 世界に目を広げた場合、上記のような解決策ではまだまだ足りない案件はあると思う。ただ、まずは身近なところから、動物愛護の問題に触れるきっかけをもつことができれば、動物愛護の輪も少しずつ、広がっていくのではないだろうか。そんなことを夢見つつ、2回にわたった動物愛護論、おしまい。
- posted by よっひ~ |
- 22:08 |
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