2007年07月15日
私はここにいない
いろいろな人に話を聞いていると、現在のようなせわしない世の中を、皆嫌っているのかと思ったら、意外とそんなこともないらしい。 特に仕事に関しては、何もせず退屈な時間が続くくらいなら、せわしなく動いていたほうがいい、という意見が多いようだ。 立ち止まることのできない人間が増えた。沈黙することのできない人間が増えた。人は絶えず語る。人は絶えず主張する。 沈黙は祈りに近い。黙して語らぬ間、人は耳を澄ませ、風や、木々のざわめきや、水の流れる音や、生ける者の呼吸や、声を聞く。そうして人は自然や、地球や、宇宙と一つになる。 沈黙を忘れる、ということは祈りを忘れる、ということと同義だ。立ち止まること、沈黙することを自らの手で禁じた社会。それは、祈りを放棄し、自然や、地球や、宇宙を一つになることを放棄した社会だ。 私はここにいない、ということが、恐怖として語られるようになったのはいつからのなのだろう。 私はここにはいない、だから私は黙して、貴方の声に耳を傾けよう。 私はここにはいない、なぜなら、私の体は私だけのものなのではなく、神のものでもあり、この大地のものでもあり、そしてこの宇宙のものでもあるのだから。 「私はここにいない」という概念は、本来上記のような後続句が付いて、賛美されるべきものであるはずだった。 語ることをやめよう。主張することをやめよう。私はここにいない、その沈黙が、また美として受け入れられたとき、祈りが始まり、人や自然や宇宙に対する敬意が生まれる。 私はここにいない、という沈黙を受け入れること。それは、人や自然を、愛することでもある、はずだ。
- posted by よっひ~ |
- 22:13 |
- コメント(0) |
- トラックバック(0)
2007年07月15日
快楽としての環境破壊
アメリカには「ジャスティス」という精神的な原則がある。日本語に訳すと「正義」ということになるが、スピリットとしてのジャスティスは、日本人の正義という感覚と少し異なるようで、正確な翻訳は難しい。 この「ジャスティス」という原則があるおかげで、アメリカでは、仕事や生活のルールの根底に「正義に則って生きるべきだ」という土台があり、それが例えばハリウッドスターや大富豪が環境問題や貧困の問題に積極的に関与し援助する、という行為に繋がる場合もあれば、世界の紛争に武力で積極的に介入すべきだ、という思想に繋がる場合もある。 もっと遡ってネイティブアメリカンになると、「信仰」が人々の精神的土台となり、すべての命は“グレイトスピリッツ”によってもたらされた同一のものなのだから、すべてのものに敬意を表し、すべてのものを平等に愛さなければならない、という原則が、人々の思考の基盤となる。 何が言いたいのかというと、世界の歴史において、どの時代にも、人々の心には「ルール」の下の基盤となる、精神的な土台(原則)が必ず存在していたのだ。 だから「ルール」として決まっていることでも、それが精神的原則に逆らう場合には、ルールに反することも正しいことである、ということが世界にはままあって、例えばアメリカの「ジャスティス」は、ハリウッド映画で、正義のために組織に逆らって単身で敵の組織に乗り込む、などという表現でしばしば描かれる。 だが翻って日本を考えると、日本にはそうした精神的原則が存在しない。いや、この国はそういった原則を築くことのないまま、表面上の「ルール」を無条件に採用してしまった、といったほうが正確かもしれない。 要するに、土台をしっかりと築かぬまま家を建ててしまったような感じだ。 だから日本では「ルールに従うか、それとも逆らうか」という単純の二元論が成立してしまう。そのどちらも、広い目で見れば表面上のものでしかないにもかかわらず。 基本的に日本人には「ルールに従う=束縛」「ルールに逆らう=解放」というイメージがあるようだ。例えば学生時代には、学校の“校則”に従うことは束縛であり、そこからの解放を目指して、あえて金髪にしてみたり、たばこを吸ってみたり、いわゆる“不良”になってみる、という行為が昔から行われていたし、社会人になっても、会社という束縛から逃れた帰り道、解放を望み、酒を煽って大声で叫んだり、道端でふらふらと千鳥足で歩くサラリーマンの姿が後を絶たない。 重要なのは、日本人の「束縛と解放」には、その土台となる精神的な原則が存在しない、ということだ。だから、ルールに則ることが原則に照らし合わせて是なのか否なのか、という考証が日本人にはまったくない。 それゆえに、日本人は「ルールに従う=嫌なこと」、「ルールに逆らう=楽しいこと」という理論が成立してしまう。 だからこそ、エキセントリックな出で立ちや立ち振る舞いが、“ウケること”として、この国では通用してしまう。 例えば飲み会では、酒の力に頼ってセクハラをしたり、大声で奇声を上げたり、器物を損壊することが、“ウケること”として談笑のネタになる。そんなことが通用するのは、世界広しと言えどもこの国くらいなのではないだろうか。 一番私が懸念するのは、「ルールに逆らうことが快楽だ」という理論が成立してしまう以上、「快楽として環境破壊」を行う人が、この国には少なからずいるのではないか、ということだ。 例えば酒が入っているときに、割り箸を大量に使い倒したり、街中にごみをぶちまけたり、届けられた食べ物を大量に残したり、そういったことが“ウケること”として処理される例は、かなりの数に及ぶような気がする。 この国の人たちにも「ジャスティス」や「信仰」と言ったような、「ルール」を越えた精神的な原則が必要だ。これは、環境問題を考える上でも、これからの世界をより良く生きるためにも、急務だ。
- posted by よっひ~ |
- 02:30 |
- コメント(0) |
- トラックバック(0)


