エコバッグ事件、その顛末

 例の新聞のテレビ欄で見たというエコバッグ争奪戦の話だが、けっこう大きな物議を醸し出しているらしく、女性週刊誌でも軒並み記事にされていた。何やらマドンナも持っているとか、転売すれば2000円のものが3万円で取引されるとか、いろいろなことが言われていて、ゴシップとしては上等なものだったようだ。

 何より疑問なのは、このバッグは本当に「エコバッグ」だったのか、ということだ。エコバッグを名乗る以上、フェアトレードによる公正な取引の元で製作されたとか、素材は天然素材で環境に配慮されている、とか、何かしらエコである拠り所があるはずだが、そのあたりが分からない。ただ買い物に持っていけるとか、生物も入れられるように防水加工が施されている、ということだけでは、エコを名乗るには不十分だ。

 この事件は、経済論者による環境論者へ向けた初めての大々的な宣戦布告だ、と捉えてよいのではないだろうか。
 
 「私たちは、エコロジーさえ経済構造に組み込んで、大量生産大量消費を促進させる手立てと準備がある。さあエコロジストの諸君、我々を止めてみたまえ」

 そう言われているような気がしてならないし、現状で、大企業がエコの名において大量生産大量消費を進めた際、それを止める手立てがあるのかどうか、分からない。

「笑(しょう)がない」ほうがいいんじゃないか

 「面白い」という言葉が、「ウケる」という表現に取って代わられたのは、いつごろからなのだろう。少なくとも、私が生まれたばかりのころには、そんな言葉は存在していなかった。

 「ウケる」という言葉が生まれたのとちょうどパラレルに、「面白おかしく生きる」ということが、この国の人々のとっての最優先事項になった気がする。
 とにかく“楽しい”ということが人生において優先される。この安易な享楽主義がおよぼした弊害は大きい。
 例えば、以前の記事にも書いたが、周りが面白いと評価すれば、器物損壊やゴミのポイ捨てなどと言った反社会的行為も“そのグループ内において”許されてしまう、ということもあるし、あと典型的なのは、いじめを受けたりいやがらせを受けたりしても、それが周りにとって面白いと評価されれば、それは「おいしい」こととして受け入れなければならない、という風潮もある。

 環境問題においても、例えば「豪快な号外」は“笑い楽しみながら世界を変える”というテーマを打っていたが、結局やったことと言えば、きぐるみやコスプレをして、けらけら笑われながら、新聞を配っていた、ということだけで、どれだけその意図が人々の心に届いたか分からない。

 もう、「笑い楽しく」ということを、人生の指針にするのは止めにしないだろうか。
 「豪快な号外」では、「笑(しょう)がない」と諦めてしまえば、笑いがない世界になってしまう、「やってみま笑(しょう)」の精神で、笑い溢れる世界に変えて行きましょう、と訴えていたが、その実、安易な享楽主義が蔓延する世界においては、むしろ「笑がない」世界を実現したほうが、救われる人は多い、そんな気がする。。