2007年07月28日
遺伝子組み換え食品とアメリカに「NO!」を
国分寺にある「カフェスロー」というところまで、遺伝子組み換え食品の勉強会に行ってきた。勉強会、とは言っても、遺伝子組み換え食品の危険性を告発したドキュメント映画を見ただけのことだが、環境問題の諸問題の中では唯一、遺伝子組み換え食品のことがよく分かってなかったので、それだけでも結構な勉強になった。 結局分かったのは、遺伝子組み換え食品の問題も、他の環境問題と同じく“アメリカ式市場経済の台頭”と“グローバリゼーションの波”が一番の問題なのだ、ということだ。 例えば、大企業が遺伝子を組み換えた種子の特許を取る。特許品による市場支配のために、農民を不当な言いがかりをつけて断罪したり、その特許品に不利な結果を生みそうな研究を金の力で握りつぶしたり、他国の農園にその種子をばらまいて、いつのまにかその種子の苗が生えてきたのをいいことに他国から特許使用料を徴収しようと画策したり・・・。 一番懸念するべきは、アメリカでは遺伝子組み換えの種子を始め、植物や動物、ウィルスやワクチンなどにも特許を認めつつあって、例えば乳がんに画期的効果のあるワクチンの特許を1企業が独占することにより、人類共通の夢である“がん撲滅”にも莫大な特許使用料が払われなければならない、というとんでもない現実が存在する点だ。 映画の中では、もしこのままアメリカの“特許社会”が進行すれば、例えばアフリカの大森林の中にアメリカ企業特許の種子を蒔いて、種子から生えた新木と在来種の新木が交配し、アメリカ企業特許種子の遺伝子を持つ木の森が出来上がれば、その時点でアメリカ企業はその森を合法的に占拠することができるようになる。その繰り返しによって、アメリカが“見えないところで”世界を征服することさえ可能になってしまう、と訴えている。 これは何も遺伝子組み換え食品に限定せずとも、環境問題全体における重要な問題で、例えば、「CO2を安全に除去できる薬品」とか「エイズの特効薬」とか「砂漠で緑を育てられる物質」とか「破壊された環境下でも生き延びられる機械」などのような、全人類を救えるような画期的な発明がされても、アメリカ企業がその特許を取得し営利を貪るために膨大な特許料を請求されたら、“アメリカ企業によって、救えるはずの人類が破滅する”とう事態もあり得るのだ。 遺伝子組み換え食品に対する対処としては、“対症療法”と“抜本的解決法”があって、まず対症療法としては、遺伝子組み換え原料が使われている食品をきちんと見極め(日ごろスーパーで買うような食品に遺伝子組み換え原料が使われているかどうかは、じつはすでにガイドブックが作成されている)、遺伝子組み換え原料を使用している企業に「NO!」の意志を叩きつけることだ。 そして抜本的解決は「グローバリゼーションと市場経済主義から脱却すること」。 もうお金や物が価値判断の基準になる世界を脱却しよう。その意志こそが、アメリカから、経済から、遺伝子組み換え食品から、そして世界の破滅から、私たちを解き放つ。
- posted by life-of-eco |
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2007年07月28日
日本の子供が餓死してしまう
この前の「増殖する南北問題」という記事に関連して、こんな記事を見つけた。 ●仙台の小学校の給食 これがこの国における「南北問題」の現実である。 これはもう本格的に、世界の貧困などと言っている場合ではなくないか?
- posted by よっひ~ |
- 13:16 |
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2007年07月28日
隔離された環境教育
「環境教育」の必要性が叫ばれている。 こと都市部の子供たちは、日常生活の中で自然と触れ合う機会が失われつつある。そこで、学校や自治体やNPOなどが中心となって、林間学校や体験授業を通して、こどもたちに自然と触れ合う楽しさ、そして自然の大切さを学んでもらおうと工面している。 またそれとパラレルに、動物を触れ合う機会を通して、いのちの大切さを学んでもらおう、という動きも現在は活発なようだ。 だが、そのように「自然と触れ合う」「動物と触れ合う」ということを考えた時に、その「触れ合い方」はどのようになっているのだろう、と考えさせられるものを立て続けに見ることになった。 まず1つは、電車の中吊り広告で、日光かどこかのホテルの広告だったのだが、まるで古城を思わせる荘厳かつ巨大な建築物の裏に、森林が映し出されていて、「大自然と触れ合う上質なひとときを」というコピーが付されていた。 もう1つは新聞の記事で、どこかの水族館か動物園の企画なのだと思うが、縄と檻で厳重に隔離された空間の中に、あざらしが1匹鎮座していて、子供たちが縄越しに行列をつくり、おそるおそるあざらしの背中に手を触れる写真が掲載されていて、「動物とのふれあい、こどもたちの思い出に」という題が付されていた。 この2つの例は、環境教育の訴える「自然との触れ合い」「動物との触れ合い」を体現している、ように見えてじつはまったく「ふれあい」になっていないことに、少し考えれば気づくはずだ。 大自然を不自然に切り取り、そこに頓挫した人間のための空間から、まるで文物のように眺める大自然。隔離された牢獄越しから動かぬ動物にただ触るだけの触れ合い。 このような触れ合い方が、「自然との触れ合い」「動物との触れ合い」というテーマに合致していて、これで自然の大切さやいのちの大切さが伝わるんだ、と万が一考えているのであれば、環境教育そのものがまったく意味を成さないことになる。 そこまで極端ではなくても、例えば学校主催の林間学校で、キャンプ場に携帯ゲームを持ち込み、立派なユースホステルに泊まり、夜は電灯が煌々と照らされるような場所で、それでも「自然のある場所で活動したから」林間学校としての意義は成立したのだ、と臆面もなく豪語するような学校は現実にありそうな気がする。 こどものうちから環境に関わることの重要性に、否を唱える者はいないだろう。だが、その「関わり方」を、私たちは再考しなければいけないのではないか、そんな気がする。
- posted by よっひ~ |
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