2007年07月29日
マイバッグもマイ箸も間違っている
『見たくない思想的現実を見る』という本を読んでいる。これは、私が以前、沖縄の基地撤廃論に対する現地の雇用と補助金の問題を引用した際の原典となる本で、経済学者金子勝と、社会学者大澤真幸が、沖縄や老人介護の現場など、社会問題の最前線の現場に実際に赴き、机上の空論では明らかにならない“現実”に一体何があるのか、を説いたものだ。 面白いのは、この本は2人の「共著」ではなく、同じ現場に2人で一緒に赴いて、それぞれに感じたことをまったくお互いには触れず記述している点で、同じものを見て、同じ話を聞いて、その上で経済学的視点と社会学的視点ではどう捉え方や受け止め方が変わるのかが明らかになっているところだ。これは、今までに存在するすべての学術本、という範疇においても非常にユニークな試みだろう。 『見たくない思想的現実を見る』というタイトルは非常に刺激的だ。 環境問題においても、見たくない現実は確実に存在する。例えば、リサイクルの有用性などがそうで、資源のリサイクルに必要な電力や労力は、リサイクル品そのものの環境的コストを遥かに上回る、という試算もあるし、ペットボトルなども、現在はリサイクルが浸透しすぎて、廃棄処分されるものが極端に減ったので、中国など海外に、ペットボトルを「輸出廃棄」している、とういう事実が国際問題にもなっている。 少し前に、『なぜ環境問題ではウソがまかり通るのか』という本が、ちょっとしたブームになった。加熱するエコブームに警鐘を鳴らすカウンター本が今続々と出版されていて、その中には、「資源はリサイクルするよりも、焼却処分して、その際に発生する熱を電力として利用したほうがエコロジカルだ」というような画期的な提言もあったりするが、エコロジストの間で、これらのカウンター理論が真摯に受け止められた例を、私はいまだに見たことがない。 大切なのは、「自分が今やっていることは間違っているのかもしれない」と思う意識だ。 マイバッグもマイ箸も間違っている。いや、実際に正しいのか正しくないのかはさして重要ではない。「間違っているかもしれない」と思っておかないと、批判的言及やもっと画期的な理論が出てきた際に、それを心の内に受け止めることができなくなる。 「我々のやっていることは正しく、今は受け止められなくとも、未来においてその正義は証明されるだろう」 かのファシストたちは、皆そういって人類を絶望の淵へと叩き込んだ。「自分のやっていることは正しい」と思うことは、必ず人を不幸にする。 もしかしたら、50年後、「マイバッグやマイ箸のブームが、環境破壊の一番の元凶だったのだ」と言われる時代が来るかもしれない。 繰り返すが、実際そういう時代が来るのかどうかが重要なのではない。「そういう時代が来るかもしれない」と意識し、批判的理論にも真摯に耳を傾ける姿勢が重要なのだ。 見たくない現実を見る。その勇気がないところに、画期的な理論の飛躍はない。
- posted by よっひ~ |
- 23:08 |
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