対症療法と根本的解決

 あらゆる問題の解決方法には、「対症療法」と「根本的な解決法」がある。本当にその問題を解決したい、と思った場合、対症療法では足りず、根本的(抜本的)な対策を考えなくてはならない。

 例えば風邪を引いて熱を出したとする。鎮痛剤を飲めば、とりあえずその場での痛みは引くだろうが、それでは根本的な解決にはならず、睡眠を取るなり、栄養を取るなりして、熱そのものを治さなければならない。
 もっと大きく捉えて、貧困なども同じで、飢餓のためにお腹をすかせて、免疫力の弱まった子供がいたとする。ビタミンAのカプセルを飲ませれば、免疫力の低下を緩めることができるらしい(ユニセフにそんな情報が載っていた)が、やはりその子供のことを考えると、ビタミンのカプセルを飲ませるだけではダメで、どうしたら貧困をなくすことができるのか、その根本的な解決策を探らなければならない。

 もちろん環境問題にも、これは当てはまる。
 例えば最近、夏の晴れた日に日傘を差す人が多く見られるようになった。あれは、紫外線や夏の熱線を防ぐためのものなのだろう。
 あれこそが「対症療法」の典型的な例で、日傘を差す人が年々増えていっている、ということは、それだけ紫外線や熱線を浴びるリスクが強くなっていることに、誰もが気づいている、ということだろう。ならば、それこそ地球温暖化や、CO2によるオゾン層の破壊について、真剣に対策を考えなければならないはずで、それをせずに、「紫外線が強くなったら傘で防げばいいか」と考えてしまうのは、根本的な解決を放棄している、ということに他ならない。
 だがそれは「エコロジー」についても同じことが言えて、マイ箸やマイバッグを持つ、というのは、「今ある資源をとりあえず減らさないようにする」という対症療法の一種で、本当は、どうすれば誰もが資源を浪費しない社会を築くことができるのか、どうすれば拡大経済を止めることができるのか、その「根本的な対策」を考えなければいけないのだ。

 日本はずっと、「対症療法」に終始し、「根本的な解決」を先送りにしてきた歴史がある。それは政治につけ、経済につけ、そして環境問題につけ。
 「まず知ることに意義がある」。これは環境問題に取り組む上で、まず初めに誰もが言われることだ。だが、そろそろ、「知る」というところから、「考える」というところへ、段階を進める局面に来ているのではないだろうか。