ハチドリは山火事を消せない

 環境論者がその活動の拠り所としてよく引用している「ハチドリのひとしずく」という物語がある。
 私はこの話にずっと違和感を持ち続けていて、以前の記事では、その違和感は、「結局山火事は消えたのか消えなかったのか分からない」という、結論の隠蔽性にあるのだ、と結論付けていた。
 しかし、そういうことではなかったのだと最近気づいた。

 動物たちは、ハチドリが山火事の火に対して小さなひとしずくを垂らすことを笑う。ハチドリは「私にできることをしているの」と答える。
 ハチドリが本当にすべきだったのは、小さなひとしずくを垂らすことではなく、見ている動物たちに助力を求めることだったのではないだろうか。
 要するに、「山火事を消したいと思うなら、もっと合理的な方法があるだろうに、一人で勝手に何やってるんだ」という、その“閉鎖性”が問題だったのだ。

 これは環境問題においては非常に重要な問題を示唆している、と思う。
 環境問題に携わる人たちというのは、えてして小さなコミュニティの中に閉じこもる性質がある。だが本当に環境問題や地球温暖化を解決したいと思うならば、仲間内で「自然を破壊しちゃいけないよね~、温暖化止めたいよね~」と馴れ合うのではなく、その思いを“外部”へ届けなければいけないはずなのだ。
 
 環境問題においては、よく“共生”という言葉がキーワードになる。自然と共に生き、動物と共に生きる。
 共生が「誰もが仲良く共に生きる」という定義ならば、真の共生とは「地球を破壊したくてしょうがない人たちとも手を取り合って仲良く生きる」という意味合いになるはずだ。
 だが、おそらく環境論者は共生ということを考える際に、そこに「地球を破壊したくてしょうがない人たち」の存在を換算に入れていない。
 この星から「地球を破壊したくてしょうがない人たち」を換算しないようにするためには、方法は2つしかなくて、「そういう種の人たちを現実に虐殺する」か、「そういう人たちはいないことにする」かのいずれかしかない。

 「そういう人たちはいないことに」してしまうと、永遠に環境問題の解決は望めなくなり、「現実に虐殺する」と、今度は環境論者は地球の破壊者、ということになってしまう。
 そんな現実から目を背けるためのレトリックとして、「ハチドリのひとしずく」は機能している。そこに違和感を感じていたのだ。

 私たちは、遅かれ早かれ、「地球を破壊したくてしょうがない人たち」と向かい合う局面に立たされる。その時、そんな種の人たちと共に生きることができるか。
 「私にできることをしているの」それだけではダメなのだ、ということに、早いうちから気づいておかなければいけない。