2007年08月14日
ブロイラースピリチュアル
昨日、「スピリチュアル」のことを記事にしたら、今日偶然新聞もスピリチュアルのことを特集で記事にしていた。 「なぜ?スピリチュアル」と題された記事には「満たされぬ心 埋めて」という副題が付されていた。 そこで私が考えたのは、まず「今が特別心が満たされぬ時代なのか」ということだ。 人間関係が希薄となり、誰を信じればいいのか分からず、鬱病や心の病は増加の一途を辿り、親が子供を殺したり、子供が親を殺したりする。 確かに、21世紀は心の時代だ、と予言されたように、現在は物質的な裕福を求めるあまり、心を置き去りにしてしまったような感がある。 しかし、この国の歴史を辿ると、じつは犯罪検挙率や少年の暴走率などの統計から、この国が統計上最も“心が満たされぬ時代”だったのは、1950年代らしい、ということが明らかにされている。 1950年代と言えば、終戦間もなく、物も食事も満足にない時期で、だから人々は手を取り合い相互扶助の精神でこの時代を乗り越えてきたのか、と言われればそんなことはなく、少年犯罪などの凶悪犯罪は、むしろ現在よりも各段と多かったらしい。 だからと言って、1950年代のほうが満たされぬ時代だったから私の今の悩みなど取るに足らないことなのか、と言われればそんなことはないが、ただ確実に言えるのは、現実的にもっと満たされぬ時代がこの国にはあって、その時代に生きた人たちは、その心が満たされぬままに、現在まで生きてきた。それでも生きていくことは可能だったであって、それに対し現在は「あなたの心は満たされていません」という烙印を安易に押しすぎているような気がするし、それによって安易にスピリチュアルに“処方箋”を求める傾向があるように感じる。 要するに現在は、“心が満たされていない”というテーゼを安易に用い、“私は満たされていない”と安易に思い込み、そして“あれもスピリチュアルこれもスピリチュアル”と、安易な処方箋としてスピリチュアルが濫用されすぎているのではないか、と思うのだ。 簡単に言うと、今のスピリチュアルは「ブロイラースピリチュアル」なのではないか、という懸念だ。 もちろん真剣に精神世界を求めている人も大勢いることは、私も経験上よく知っている。だが、地卵とブロイラーの卵が外見では判別つかないように、スピリチュアルだから、ということではなくて、地に足の着いたスピリチュアルと、ブロイラースピリチュアルを、判別できる目を持たなければならないのではないか、と思うのだ。
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2007年08月14日
スピリチュアルと共に生きる
こと環境とスピリチュアルというのは密接な関係にあるらしい。 この「エコナコト」にも『月湖*宇宙(そら)に抱かれて』さんや、『変わった生活』さんのような、天使やスピリチュアルを人生の拠り所としている方もいるし、私自身も環境問題に興味を持つようになってから、スピリチュアルな人生を志向されている方との出会いが増えた。 私自身はスピリチュアルを人生の最優先事項としているわけではなく、あくまで寛容や思いやりのある人生を志向する、言うなれば「修行」の一環として瞑想や気功などを実践している程度だ。だから私には天使や精霊の声は聞こえないが、俗世間の中に身を置く、という意味ではそれでもいいのかもしれない、と考えている。 チベット仏教の最高指導者ダライ・ラマ14世は、チベット教の指導者でありながらイスラム教を保護している。ダライ・ラマ法王は、「思いやりのある世界」を目指す、という題目の中では、宗教の違いは大した問題ではないという考え方を持っていて、私も結果として思いやりの心を育むことができたり、人に優しくすることができるのならば、その手段は仏でも天使でも精霊でも何でもいいと思っている。 結局は環境破壊も戦争も貧困も、人の心が引き起こした問題であり、それらを根本的に解決する手立てとして、スピリチュアルな生き方は大きなヒントを与えてくれるだろうと思う。私は“観念”ではなく“洞察”として、それらの生き方を見守っていきたい、と思う。
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