2007年08月15日
ムラオカさんへの返事
ムラオカさんのコメントが、何か重大なことを示唆しているような気がして、1日置いていろいろ考えてみた。 いろいろあるが、まず考えたのが「世間の目」というものの存在だ。 「世間様にご迷惑をおかけして申し訳ない」と、一時期企業や病院で不祥事が起きた時には、必ず使われていた定型句があり、作家の村上龍なども、かつてこの国を覆っていた「世間」の影に着目し、「実体がなく漠然とした、しかしすべての人間の行動を縛り付ける大きなもの」と、この国における「世間」の影響力の大きさを分析していた。 しかし、よくよく考えてみると、私個人は、何か自らの行動を規制する拠り所として「世間の目」などというものを意識したことがない。「世間」というものの領域を漠然と定義すると、隣近所の大人や、学校の先生などが挙げられるのだろうが、おそらく私も含め、「地域の大人の目が怖かったから悪いことをしなかったのだ」と断言できる人は、私以上の年代の人を含めても、ほぼ皆無なのではないか、と思う。 では、私たちが一般に用いる「世間の目」とは、一体なんだったのだろうか。 考えてみるに、それは「情報」のことだったのではないか、と思う。 例えば一番分かりやすいのは少年犯罪だ。昔は情報が少なかったので、例えば自分が大人に向けて凶器を向けた場合、大人がどういった反応をするのか分からなかったし、実際に犯罪を犯したら自分はそれからどうなってしまうのか、それも分からなかった。 しかし今は、刑法は14歳未満の子供には適用されないことが“分かってしまった”し、大人に凶器を向けたら、意外とおどおどして大した対応も取れない、ということが“分かってしまって”いる。 離婚などもそうで、自分が女性だったとして、夫の言動に嫌気が指して、夫を殴りつけてしまった場合、周りの大人が自分のことをどう見るのか分からなかったし、何より夫がそれからどういう態度を取るのか分からなかった。だが今は、夫を殴っても、男はそういう時に意外と毅然とした態度が取れないことが分かってしまったし、周りの人たちも、そういった家庭の事情に口を挟まない、ということが分かってしまった。 昔は情報が少なかったので、自分が悪いことをするとどうなるのかが“分からなかった”。その、分からないということに対する「想像の恐怖」のことを、私たちは「世間の目」と呼んでいたのではないだろうか。 つまり、昔は相互扶助の精神が働いていて、周りの人間との距離が近かったので、周りの目というものに人が敏感になっていた、ということなのではなく(そういった側面を多少はあるのかもしれないが)、ただ単純に「無知」だったのではないか、と思うのだ。 もちろん、その「無知」というのは、決して悪いことではない。分からなくてもいいことが“分かってしまった”がために引き起こされた悲劇は多い。皮肉なことだが、「少年犯罪を犯すとどうなってしまうのか」が分かってしまったがゆえに、少年犯罪は増加したのだ。 情報化社会、と現代が呼ばれるようになって久しいが、溢れる情報が「世間」という存在を駆逐した、と考えれば、世間とは精神的なものなのではなく、経済的な産物である、と言うことが分かる。だからこそ、経済状況と人々の心の動きはパラレルになっていて、「人々の心を変えるには、まず経済を変えることだ」という提言は正しいのだ。 ムラオカさん、ありがとうございました。
- posted by よっひ~ |
- 22:50 |
- コメント(2) |
- トラックバック(0)


