「平和難民」という存在

 「2ちゃんねる」なんかを見ていて感じるのは、最近の若い人たちは本気で「環境を破壊したい・戦争をしたい」と思っているようだ、ということだ。
 少し前なら、「本当は平和がいいんだけど、でもそれだけじゃ国際情勢に対応できないから仕方なく・・・」とか、「本当はエコな生活をしたいんだけど、周りに変な目で見られるから仕方なく・・・」といったような、「仕方なく」という思いが読み取れた部分もあったのだが、最近は確信的に、本気で「戦争こそが正義だ。環境破壊こそが正しい」という意見を発する人が増えたように思う。
 私はどちらかと言うと、非暴力・平和主義者なので、そういった人たちの存在を理解できない、というか、受け入れがたいものがあったのだが、最近「マクドナルド」に行く機会があって、なぜそういう若者が増えたのか、その理由に思い当たった。

 マクドナルドでまず目にしたのは、まだ0歳1歳の子供を連れた親子がいて、ベビーカーに乗った赤ん坊にフライドポテトを食べさせている母親の姿だ。
 そしてその隣には、3~4歳くらいの子供連れの親子がいたのだが、子供はPSPに夢中になり、親はケータイのメールに夢中になっていて、お互いのことをまったく意識していないようであった。
 そしてその奥には、女子高生の一団がいて、制服を着たまま、机を囲んで談笑していた。

 どういうことかと言うと、まず今の子供は0歳のころからマクドナルドで連れて行かれる。つまり家で食卓を囲む時間よりも、マクドナルドにいる時間のほうが長いのだ。
 そして、ベビーカーが外される頃になると、すぐさまPSPが買い与えられ、そこで親子関係がまったく断絶される。
 要するに、今の子供たちにとって、「家」は「我が家」ではなく、「両親」は「親」ではない。「我が家」とは「マクドナルド」のことを指し、「親」とは「PSP」のことを指しているのだ。
 そういった子供が成長し、高校生になると、学校が終わると「マクドナルド」という我が家に帰り、「PSP(高校生になると携帯がその役目を果たすことになるだろう)」という両親にただいまを言うようになる。それが制服のままいつまでもマクドナルドにたむろする女子高生たちの正体だ。
 もちろんお金がなくてはマクドナルドに行けないし、新しいPSPのソフトも買うことができない。今の子供たちにとって、お金とは「我が家に帰るため」「親に会うため」のライフラインなのだ。
 逆に言うと、お金がなくては我が家に帰れない、親に会えないということになる。今の子供たちにとって、親や我が家は金で買うものなのだ。

 環境保護や平和活動では、「Japan as No.9」のスローガンに代表されるように、日本の経済発展を止めることがその礎にある。無駄な浪費をなくすため、ロハス的なライフスタイルを広げるため、実際にマクドナルドやPSPにような「浪費娯楽」を否定しよう、という動きもある。
 
 今の子供たちにとっては、その「浪費娯楽を否定される」ことが怖いのだ。
 戦争では必ず、武力によって家を追われ家族と離れ離れになる「難民」が現れる。それと同じ感覚で、もし平和な社会が実現したら、もしエコロジーな社会が実現したら、僕たちは「PSP」という両親と離散し、「マクドナルド」という我が家を追われることになるかもしれない。
 そう、今の子供たちは「世界が平和になることで、自分たちは難民になるかもしれない」と、思っているのではないだろうか。
 だからこそ、戦争と環境破壊を支持し、経済発展を今以上に推進することこそが正義だ、と確信的に感じるに至っているのではないだろうか。

 マイバッグやマイ箸を持つことは簡単だ。だが、マイバッグやマイ箸を持つことで、PSPを両親に持ち、マクドナルドを我が家とする人たちの「家庭」を引き裂くことになるかもしれない。
 そこには通常ではあり得ない「歪み」があるが、その歪みを正すのは簡単なことではないだろう。