環境型敵役と、真の敵

 前回「仙水忍」の記事の書くために、ネットで「仙水忍」を検索してみて、面白い論文を見つけた。

 よく漫画やアニメでは「地球にとって人類は悪だから、人類滅亡を計画する」といいう敵役が登場する。仙水忍もそうだし、有名どころでは『風の谷のナウシカ』の「王蟲」もそれに類するかもしれない。
 つまり、自らが世界の王として君臨するでもなく、誰か特定の人物に対する憎悪をぶつけるのでもなく、「地球の代弁者」として、地球の自然や生命を護るために、その障害となる人類を抹殺しようとする者である。それを、その論文では「環境型敵役」と呼んでいた。「全体主義的敵役」と呼んでもいいかもしれない。

 もちろん彼らは人類抹殺のために破壊の限りをつくし、最終的には主人公に淘汰される運命にある。
 しかし重要なのは、過去の漫画やアニメの中で、「環境型敵役に対する抵抗」を描くことがあっても、「環境型敵役の動機に対する検証」は、一度も行われたことがない、ということだ、と、その論文は指摘する。
 例えば『幽遊白書』の場合、主人公浦飯幽助に、そんなにこの世が嫌いなら、すべてを壊してしまえばいいじゃないか、と問われ、仙水忍はこう切り返す。
 「俺は 花も木も虫も動物も好きなんだよ。嫌いなのは…人間だけだ」

 その答えに対して、幽助は、こう返答する。
 「オレはてめーが嫌いだ」

 「環境型敵役の動機に対する検証」が作品中に行われないのは、そこに「答えがない」からだ。
 自然環境を破壊する人類に対する憎悪から、人類抹殺を計画する。では「自然環境を破壊する人類に対して憎悪を向けるのは正しいことなのか」「自然環境を護ろうを言う動機には一理あるのではないか」「本当は彼の言うとおり、憎むべき本当の敵は人類そのものなのではないのか」、問い始めるときりがないのである。

 なので「理由はどうあれ人類を混乱させた罪で、敵役を断罪する」ところで、どの作品も終焉する。


 しかしこう考えると、今現実に環境破壊に向き合っている人類にも、同じような関係が成り立つのではないか、という気がする。
 例えば、周りにゴミの分別を声高に叫んだり、マイ箸マイバッグの持参をことうるさく言う人がいたとする。
 その人の言うことが正しいのか、検証しだすと気が重くなる。だからとりあえず、「うるさく言うことで世間に荒波を立てた」という理由で、その人の存在を断罪しようとする。断罪した後で、その人の言ったことを検証することは、決してない。
 このような形で、エコロジストと、それに対する資本主義者の抵抗は続いていくような気がする。

 環境型敵役が登場する作品において、真の敵とは、その敵役ではなく、敵役の動機を支える、人類のシステムや、人類そのものである。
 おそらく私たちにとっての真の敵も、システムや人類、そのものということになるのだろう。
 それはエコロジストにとっても。その他の人間にとっても。