2007年12月03日
プロジェクト闇を往く
ワークショップの主催側から、プロジェクト発案のヒントとなるメールをもらいました。それを踏まえて。 前回のワークショップで一つ確認したのは、「環境保護」と「自然保護」はイコールではない、という、改めて思えば当然とも言える事実だ。 現在の状況下では「環境」と言われると、どうしても「世界の自然(ネイチャー、という意味での)の状態」のことをイメージしてしまうが、そもそも「環境」という言葉は、「労働環境」「育児環境」「職場環境」などの派生語が示すとおり、「自分を取り巻く空間・条件・関係・交流の総称」のことを指すものだ。現に、例えば三省堂の辞典で【環境】を調べると、 「人間・生物を取り巻き、それに影響を与えるまわりの状態」 とある。 それを逆に捉えると、「環境保護」とは、決して「自然保護」を指すわけではない、ということでもあるわけだ。 「環境保護」とは要するに、「自分を取り巻く状況や関係や交流を、自らが願う理想の状態に近づけたい」ということなのである。 じゃあ「自らが願う理想の環境」とは何ぞや、という話になるのである。おそらくそこが、主催者側が問う「どんな目的」なのか、ということだ。 一つ思い出したのは、日本において“食”とは多分に趣味的である、という話だ。 例えば京都の懐石料理とインド料理を比べてみると、懐石料理は非常に柔らかくて、薄味で、しかも小さな器に少しずつ盛られている形で、時間的に全部食べ終わるのも、身体的に満腹感を感じるのにも、非常に時間がかかる。 それに対して、インドの料理は、あれだけ暑い気候であるにも関わらず、さらに身体を燃やすような辛い料理が多い。 なぜそんな違いができたのかと言うと、単純に「サバイバルするということに対する切迫感」が違うからなのだ、と言う。 インドは常に戦争の渦中に身を置いていた。その上、気候の上でも豊富な食料を確保することが難しい立場にいる。 つまりインドは「今食べなければ次はないかもしれない」という思いが非常に強く、意地でも食事は口に入れなければならなかったので、気分や、病気や、状況によって、「食べたくない」という時にも、口に入れればとりあえず食べられるように、と味を強烈にしている。 それに対して、日本は江戸時代以降外国と戦争をすることも、戦国時代のような内紛が起きるようなこともないという状況が200年以上に渡って続いていた。そんな中で、食は、生き残るためのものではなく、風情や趣味で楽しむためのものに変化していったのだという。 どちらが良くてどちらが悪いか、という話ではない。食を風情や趣味と捉えてきたという歴史があるこの国で、食がファーストプライオリティーとして捉えられる、つまり「環境保護、と言われて、何が何でも、他のことを差し置いてもまず何より“食”を守りたい」と願う風潮が、特にこの国では起きにくく、それは私たち自身も例外ではないのではないか、ということだ。 たぶん「何より食を守りたい!」と言い切ってしまえば、「え?じゃあ心と人を繋ぐとかはどうするの?」という話になるだろうし、「いや、そこまで切実には考えてなくて・・・」ということになれば、「え?じゃあどうしたいの?」という話になる。それが、「プラスの側面、マイナスの側面 など様々な視点から検証してください。」という主催者側のメッセージの真意なのだろう。 だんだん深い話になっていく。だがそれこそ主催者側の望むことなのだろう、と私は踏んでいる。メールの最後に次回のワークショップの予告が載せられていて、そこで 「みなさんの企画が、プロジェクトからなにかの形で起業を考えている場合、そのあたりのお話しも質問して聞いてみてもいいかもしれません。」 と言っていた。 そこまでやれや、ということなのだろう。
- posted by よっひ~ |
- 22:49 |
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