2007年12月18日
佐世保の事件に寄せて
長崎の佐世保で、この国では前代未聞の銃乱射事件が発生した。 おそらくこの事件が“発生した”ということについては、「日本もとうとうここまで来てしまったか」という思いと、「いつかはこうなると思っていた」という思いが交錯して、各々が気持ちの整理をつけていることだろう。 犯人の深層心理や、事件が発生した社会学的な背景については、専門家や全国のブロガーが、それぞれに論考していると思うのだが、私が考えたのは、以前記事にもした、「取り返しがつかなくなる前になんとかすることはできなかったのだろうか」ということだ。 こういう猟奇的な事件が発生すると、毎回「前兆はあったのに、警察は何もしてくれなかった」ということが言われる。 だが私が記憶する限り、「事前に警察が何とかしてくれて、凶行を食い止めることができた」という事例を、いまだかつて見たことがない。 つまり、警察が何とかしてくれたことなんて1度もないのに、事件が起きると決まって警察に責任を追及する、という姿勢を、この国はそれこそ何十年と取り続けているのである。 事件を事前に食い止める、ということを最優先に考えるならば、○○という人が怪しい、と思っている同士を何十人何百人と集めて、その何百人で直接その人の家に乗り込むのが一番手っ取り早い。 だがそれをしないのは、「自分に責任やリスクが及ぶ」のを、無意識であれ意識的であれ、避けているからだ。 こういう事件があるたびに警察の責任を追及する人がいて、法整備を求める人や、社会の責任を言及する人もいる。そういう人たちはつまるところ、「自分たちが積極的に“関わって”、そういう事件をなくしていきたい」と思っているのではなくて、「自分たちが“関わらなくて”済むように、誰かに何とかしてほしい」と、思っているのである。 ・・・と、こういうことを考えていて、ふと、環境問題も同じなのではないか、ということに考えが及んだ。 世論調査では、環境問題に「興味がある」という人は、全国民の90%以上に及んでいるらしい。 それでも、実際にNPOの活動に参加したり、マイ箸マイバッグを普段から持ち歩いたり、積極的に活動をしている人はまだまだ少ない。 つまり、90%以上の「環境問題に興味がある」というのは、「積極的に関わって、環境問題を何とかしたい」ということではなくて、「環境問題に関わらなくて済むように、誰かに何とかしてほしい」という意味合いでの興味の持ち方なのではないか、と思うのだ。 おそらく、これから先も、日本が欧米式のシステムに追従していくのなら、銃乱射事件に留まらず、アメリカやヨーロッパで起きているような問題に、遅かれ早かれ日本も直面する。 問題を事前に防ぐのは、「自分が積極的に関わって、何とかしていきたい」という思いを、どれだけ共有し、共通理解にできるか、にかかっているとは思うが、じゃあどうすればいいのか、それを考えるのは、おそらく何年、何十年という論考が必要となってくるだろう。
- posted by よっひ~ |
- 11:28 |
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