誰のためのエコなのか

 印象的な出来事があった。

 もう半年以上前になるが、上野の野外音楽堂で「風人(かじぴと)の祭」という、沖縄音楽の祭典があった。
 そのころの私は、ボランティアの活動に無性に憧れていて、ボランティアについて検索していたら、ちょうどこのイベントの運営ボランティア募集のページが引っかかったのだが、結局募集期間を過ぎていたので、ボランティアとしては参加せず、1観客として本番のライブを見に行くことにした。

 ただの音楽系イベントだと思って行ったのだが、じつは環境系、というか平和集会的なイベントで、このイベントの中心人物である「南ぬ風人ま~ちゃんう~ぽ~」という人が、しきりに世界の平和や環境の保護について訴えていた。
 このま~ちゃんう~ぽ~という人が、かなりカリスマ性のある人のようで、涙ながらに自分の故郷がコンクリートに埋められた話をしたり、みんなで踊りながら平和の大切さを叫んだりしていて、イベントが終わった頃には、観客は涙を流したり、肩を寄せ合い、抱き合ったりしながら、「環境は守らなきゃいけないよね」「平和って大事だよね」と、互いに語り合い、会場を後にしていた。

 だが、私は見逃さなかった。
 
 ぼろぼろと涙を流し、抱き合いながら、環境保護や平和の大切さを声高に叫びながら会場を出て行く人々の集団を、上野公園に居つくホームレスの集団が、複雑な表情で見つめていたのだ。
 会場ではPAが使われていたので、会場内で、環境保護や平和の大切さを鼓舞する声が、彼らにも届いていたことだろう。

 涙を流し、抱き合いながら、真剣に環境保護や平和の大切さをかみ締めていた集団は、ついに誰もホームレスのほうへ目をやることはなかった。
 
 環境保護とは、平和とは、一体誰を守ることなのだろう。

 今でも私は、エコロジーとは、飢餓や貧困に喘ぐ人たちや、戦争や紛争で故郷を失った難民や、社会的弱者に目を向け、それを救う考え方なのだ、と信じている。

 だが、「世界を救おう」と訴える人たちが、目の前の「救われない人々」のことに、素通りし、気づかない。
 
 社会構造を変えることにやっきになって、結果本当に救われるべき人が救われない。それはエコと呼べるのだろうか。その疑問と違和感は、今でも私の中にあって、それが私とエコの「距離感」を決定付けている。

エコと幻想のファシズム

 私は、例えば某北の国の総書記の人には、長生きをしてもらいたいと思っている。
 何を不謹慎な、と思われるかもしれないが、環境問題に携わる上で、そう考えるのは、ある種の“責務”のようなものだ、と私は捉えている。

 エコロジーとは、要するに「地球の環境を守り、環境破壊による地球滅亡を食い止めること」だが、地球の環境を破壊し続けているのは何者でもない人類であり、純粋に「地球を滅亡から守りたい」と考えるのであれば、一番確実で手っ取り早い方法は「人類を滅亡させてしまう」ことなのである。
 
 だが、大多数の人はエコロジーをそのようには捉えていない。大多数の人にとってのエコロジーの到達点とは、「環境を守ることで、人類を滅亡から救うこと」であり、意識的であれ無意識であれ、エコロジーの目的とは、厳密に言えば「地球を守る」ことではなく「人類を守る」ことなのである。

 と、するならば、私たちが守るべき「人類」とは、聖人君主から極悪人に至るまで、すべての人々を含むべきなのだ。
 なぜならば、エコロジーとは、人類全体を滅亡から救うために、地球全体を守ろうとする動きだからだ。ごく一部の人を守りたい、とするならば、その一部地域だけにシェルターなり、酸素循環システムなどを置いて、そこだけを存続させれればいい話なのだが、そういうことをエコとは呼ばない。地球全体すべての人類を救うために、地球全体すべての環境を守る、そこまでスケールが大きくなって、初めてエコはエコと呼ばれるようになるのである。
 
 人類もいろいろな人がいて、「環境破壊の元凶」とされている人も世界にはまだまだたくさんいる。だが、そういう人たちを「環境破壊の元凶だから死んでも構わない」とする考え方は、「人類を守りたい」ということではなく、「選ばれた人だけを守りたい」ということであり、それはエコロジーではなく、ただの選民思想、ファシズムになってしまう。

 世界の環境を守りたい、ということは、世界のすべての人を守りたい、ということであり、環境問題に携わり、エコロジーに寄与したい、というならば、例えばアル・ゴアやダライ・ラマからブッシュ大統領や金総書記に至るまで、すべての人々を「環境を守ることで救いたい」と思う責務と覚悟が必要だ、と思うのだ。