「幸せ」の定義

 ワンガリ・マータイさんが提唱している「MOTTAINAIキャンペーン」が主催している、「MOTTAINAIフリーマーケット」というものがあって、そこで古着の回収をしてくれると言うので、古着を持って行ってみた。
 場所は大井競馬場の駐車場スペースで、駐車場全体がフリーマーケットのためのスペースとして貸し切られていて、かなり大規模なイベントになっていた。
 良かれと思って、事前にクリーニングしておいたものを、袋に入れたまま出しに行ったら、こういう場合は袋から事前に出しておいてもらったほうが都合がいいらしい。
 古着回収に協力したお礼、ということで、簡素なエコバッグをもらった。やはり最近エコバッグが供給過多のような・・・?


 それはそれとして。前回の記事で「今、この瞬間が幸せか?」ということを書いた。ところで「幸せ」というものを、人はどのように定義しているのだろう。

 仏教では、究極の幸福、というか悟りとは「あらゆる苦悩から解放されること」を指すらしい。
 仏教の教えの核心となる「四聖諦(ししょうたい)」という4つの真理がある。
 
 ①苦しみがある→②苦しみの原因となるものがある→③苦しみから解放する方法がある→④その方法へたどり着くための道がある

 という、4つの過程を経て(つまり修行の中で、苦しみを自覚し、それからその原因となるものを突き止めて、という順序を追って)、4つ目の「道」を完全に成就したとき、人は悟りを開き、幸福を手にする、と仏教では考えるのだそうだ。

 私は仏教徒ではないが、「野心が持つ怒りや欲望についていけない」とか、「平和よりむしろ平穏を」など、どちらかと言うと、“求めない”生き方を志向している向きがあるので、この仏教の考え方には共感できる部分があって、つまるところ、私個人の「幸福」の定義は、「“空”に近づくこと」としている。苦しみとか、欲望とか、怒りとか、悲しみから解放されて“空っぽ”でいられること。それが幸福、ということなのではないか、と考えているのだ。

 おそらく一般的には幸福とは「笑って暮らせること」とか「愉快に楽しく暮らせること」というイメージがあるように思う。だが例えば、「笑う」ということを取っても、人を馬鹿にしたりとか、優越感を持った時に笑う、という場合もあって、笑う・楽しむ=幸福であるとは限らない、と私は考えていて、むしろ笑いや愉快な感情は、“空っぽ”であるという、幸福な状態に花を添える付加要素程度のものであるべきだ、と思っている。

 だから、「今自分は幸福か」ということを考えるときにも、「自分はどれだけ楽しんでいるか」「どれだけ笑っているか」「どれだけ愉快か」という尺度ではなく、「どれだけ苦しみや怒りから解放されて“空っぽ”な状態になっているか」という尺度で考えるほうが良いのではないか、と思うのだ。