エコと政治とSTOP!の叫び

 そういえば、川田龍平氏は、今どこで何をしているのだろう?

 『ecogroove』さんが、六ヶ所村の核燃料再処理施設と、高尾山にトンネルを作る、という問題を立て続けに記事にしていた。
 その土地の生態系が破壊されるとか、人間にも危険が及ぶとか、どちらもその問題点に共通項があって、もちろん、常識的に考えれば、どちらも「止めなければならない」問題なのである。
 だがそういった、「問題のある案件」が事業としてまかり通ってしまうのにも理由があって、ecogrooveさんが指摘している通り、どちらも、その根本的な問題は、「政・官・業の癒着が国民の生活や自然環境を脅かしている」という点にあり、つまり元を辿れば、どちらも「政治を変えなければならない」という問題になってくるのである。

 だが、政治を変えるためには、考えなければならないことが2つある。

 まず1つは「今の政治に“問題がある”ということが、どれだけ共通理解になっているか」ということだ。
 例えば、六ヶ所高尾山双方の問題として、「その土地の動物たちの生命が脅かされる」ということがある。
 「ここに再処理施設を建てると(トンネルを掘ってしまうと)、動物たちの命が危険に晒されるの。それって、かわいそうでしょ?」という問いに、
 「そうだね、かわいそうだね!」と思う人もいれば「いや、別に」と思う人もいて、「かわいそう」と思ってくれる側の人がどのくらいいるのだろう、という問題だ。
 政治を“変えなければならない”ということは、今の政治に“問題がある”という前提を、共通理解として持っておく必要があって、
 「いや、動物ごとき人間様のために絶滅したって別にいーじゃん」という意見が大多数を占めるならば、今の政治には“まったく問題はない”ということになってしまうのである。

 もう1つの問題は、「自分たちの意見を届けてくれる人が政治家になったとして、それで本当に政治は変わるのか」ということだ。
 ecogrooveさんの記事では、来る八王子市長選挙に環境保護派として立候補する、橋本さんという人を紹介していたが、小泉元首相が「自民党をぶっ壊す」と公言して首相になって、結局ぶっ壊せなかったように、環境保護派の人が選挙に当選して、結局どれほど声が飛ぶものなのだろう、という疑問がある。
 そこで、川田龍平氏に話が戻る。川田龍平氏は、様々な環境保護系NGO・NPOの支援を受け、まさに「エコな人」を代表して議員となった。
 川田氏の当選、そして議員活動は、政治にエコがどれだけ食い込むか、といういい判例となるはずなのだが、議員当選後、川田氏が具体的に何をして、何が変わったのか、というニュースを聞いたことがない。

 
 誤解しないでほしいのだが、私は切実に六ヶ所村再処理施設も高尾山のトンネル工事も中止してほしいと願っているし、この記事を書くことで、そう願い行動する他の人のやる気を削ごうと思っているのでもない。
 ただ、「何が問題で、何を変えなければならなくて、そのためには何をすればいいのか、その具体的なビジョンが見えていないと、ただ止めよう、と叫んで止まるような問題ではないだろう」ということを確認しておきたいだけだ。

マイ箸はやっぱり意味がない?

 だまされていたのかもしれない、と思った。

 マイ箸の話である。

 マイ箸を持つこと自体に意味はない、ということを以前にも書いたと思う。なぜなら、木を切らないようにするためには、割り箸の消費量ではなく、生産量を減らさなくてはならないからだ。
 割り箸にも「消費期限」がある。例えば、マイ箸が普及したおかげで、ある店の割り箸消費量が減ったとする。だが、たとえ割り箸消費量が減って、店の裏にあぶれた割り箸の在庫が1000個から1500個になったとしても、ある時期が来たら「消費期限切れ」ということで、1500個丸ごと廃棄されてしまう。
 そして店は、マイ箸普及前とまったく変わらぬ量の割り箸を、業者に受注することになるだろう。

 だが私が「だまされた」と思ったのはそこではない。
 そんなこんな言いながら、私もマイ箸を常備していた。個人の力は小さくとも、それをみんなでやるようになれば、いつかは大きな力になる、と信じていたからだ。
 だが、そういうロマンチックな考えは、問題の根本的な解決から目を閉ざしてしまうことに気づいたのだ。
 
 大勢の“他人”が集まって初めて力になる、というところに安住してしまうと、「じゃあ自分のやることは微量でかまわない」という、他力本願の思想に繋がってしまうし、「小さいながらもちゃんと行動したのだから、もうできることはない」そういう風に思ってしまうと、「本当にその小さな力が集まれば大きな力になるのか」「その力には意味があるのか」というような、
 「本当は何が問題で、何を解決させなければならなくて、自分のやっていることは、本当にその解決に繋がるのか」
 という事後考証の必要性から目を背けることになってしまう。

 私が「だまされた」と思ったのは、初めから企業は、マイ箸運動に人々を安住させておけば、割り箸を受注している企業や、割り箸を生産している企業に責任追及が及ぶことはないと、分かっていたのではないか、と思ったからだ。

 割り箸の生産量を減らし、森を守りたい、と思うのであれば、本当は「外食そのものを減らさなければなならない」のだ。
 どんなに消費量を減らしても、店の割り箸受注量は減ることはない。
 とするならば、その店そのものを減らしていかなければば、解決にはならないのだ。