「不健全な競争社会」が生む「悪意」

 新聞やメディアで、ブログの「炎上」が社会問題として話題になっている。
 その他に、芸能人の不適切発言に対してことさらに謝罪を煽り立てたり、「学校の裏サイト」と呼ばれる同校内の生徒を集めたサイトでの誹謗中傷など、ネットでの繋がりを悪用して、誰かを貶めようとする動きが日増しに増大している。
 
 ネット上ではその匿名性を利用して、誰もが気軽に誰かを貶め、優越感に浸ることができる。
 そういった歪んだ優越感を持つことに対して、ある人はこう言う。

 「相手への怒りも正義感もまったくない。人の不幸は楽しいでしょ?」

 ネットでの匿名性は人間の悪意を増長する。それは、「携帯電話にテレビが付けば、公共の場で配慮を顧みずテレビを流す人間が現れる」というのと同じように、技術の発展に付随する不可避のリスクでもある。
 だがここで重要なのは、ネットはあくまで小さな悪意を増長する「推進剤」なだけであって、問題の根本は、ネットに至るまでに、現実社会のどこかで、彼らの「小さな悪意」は生まれ、育てられている、ということである。

 ここで生まれる「悪意」とは何か?

 「人の不幸は楽しいでしょ?」という意識である。

 
 人の不幸が楽しい、と感じるのは、それだけ現実社会で自分が貶められている、ということの裏返しでもある。
 なぜ人は貶められることに恐怖し、優越感を求めるのか。それは、現実社会は競争社会だからである。
 
 競争社会、と一言に言っても、世の中には“切磋琢磨”という意味での健全な競争もあって、競争そのものが悪、というわけではない。健全なライバルがいて、健全な努力をし、健全にそれが評価されれば、そこに優越感や劣等感が生まれることはない。
 だが、この世界には劣等感や優越感をあえて植え込むことによって機能する競争もあり、他人を蹴落とし、自分だけが這い上がろうとする力を糧にして成長した企業や団体も数多く存在する。
 つまり、競争社会の「競争」には、切磋琢磨を基調とした正当な競争、つまり「健全な競争」と、劣等感と優越感による蹴落とし合いを基調とした「不健全な競争」とがあり、現在の社会は、競争社会と言っても、「不健全な競争社会だ」と言えるのである。
 
 その不健全な競争社会とは、如何にして生まれるのか。
 それは、評価基準が捻じ曲げられる場合と、敵の数があまりにも多い場合である。

 評価基準がある一部の権利者によって握られ、どんなに努力をしても正当な評価を得られないような場合、人は劣等感を持つ。
 そして、周りの人間が敵ばかり、という場合も、人は誰かに心を許したり、相談したりすることができず、劣等感を抱く。
 確かに、企業の中には、いわゆる「ワンマン経営」「一族経営」と呼ばれ、一部の人間だけが決定権を持ち、社員を駒のごとく扱う企業も多く聞かれる。
 そして現在は、ネグレストにより話をまともに聞いてくれない親や、自分の側に立ってくれず対面ばかりを気にする教師、物を持つ持たないで人をランク付けしようとやっきになるメディアや、モンスター化する顧客など、ニュースを見聞きするだけでも、世の中には“敵”が溢れているのだと痛感する。

 つまり「人の不幸が楽しい」と思えてしまう社会とは、世界が敵だらけで、かつ自分の評価が一部の人間によって歪められてしまう社会、ということなのだ。

 劣等感や優越感が持つ悪意を、芽の状態から摘むためには、まずひとつ、健全な競争をさせること。そしてもう一つは、友人以外、例えば親や教師や上司やメディアが、「悩みや相談を聞いてくれそうだ」と思われるようになるまで品性を磨くことだ。
 
 要するにすべての人が、「この人は自分の味方だ」とすべての人から見られるように自分を律し、自分を磨け、ということだ。

 「言うのは簡単だが・・・」と思われそうだが、自分で自分を改めろ、という話だから、言うほどに難しいことではない、ような気がする、のだが、・・・どうだろう。