後悔について

 愚かかな、人は後悔したくないと願いながら、常に後悔し続けて生きるものである。
 そして時に人は、とりかえしのつかない事態になって初めて自らの愚かさに気づく生き物である。

 今までの人生の中にも様々な後悔があった。その中には、既に忘れ去ってしまったものから、結局とりかえしのつかないままのものもある。
 そう考えていくと、きっと“既に忘れ去ってしまったがとりかえしのつかない後悔”というものも少なくないはずで、自分は自らの人生の中で、どれだけ“とりかえしのつかない”ことをしてきたのだろう。

 後悔には、「やってしまった後悔」と「できなかった後悔」とがあって、やってしまった後悔よりも、できなかった後悔のほうが傷は深い、とよく言われる。
 たぶん“既に忘れ去ってしまったがとりかえしのつかない後悔”は、「できなかった後悔」の方で、そういう意味で私は、いや人間はたった1度の人生なのに、できなかったことも為し得なかったこともたくさんある。

 何ができなかったのだろう、何が為し得なかったのだろう。

 いや。

 何ができていないのだろう、何を為し得ていないのだろう。

 きっとまだ、できていないことや、やってすらいないこともたくさんある。
 人は、後悔したくないと願いながら、常に後悔し続けて生きるものなのだから。

お金はいらない、という議論に

 「お金のいらない国」という議論がある。手元に資料となる文献がないので、細かい内容はよく分からないが、物質的な充足のみに重きを置き、大量生産大量消費を繰り返す現在のような生き方では、いずれこの星の資源は枯渇する。だから物質的な豊かさではなく精神的な豊かさへシフトしよう。そうすれば、お金なんて将来的には必要なくなる、というパラダイムシフトの提言なのだろう、と思う。

 だが精神的な豊かさへシフトしよう、という議論をすると、必ず「今の便利な生活を手放すことは現実的に不可能だ」とか「禁欲主義に堕さなければならないのか」という反論が発生する。今現在の議論においては、「物質主義」と「精神主義」は、まったく相反するものとして、二元論的に語られるのが現状だ。

 本当にお金はいらないのか。
 実際にお金がなくなった世界はどうなるだろうか。そのことを考証するためには、まず「お金」とは何なのか、ということを再考しなければならない。

 まずお金は、現代社会において「ある種の格差」「ある種の平等」を作り出していて、お金がなくなるということは、その「ある種の格差」「ある種の平等」共に消失してしまう、ということで、そのことによってメリットもあればデメリットも発生する、という事実を忘れてはならない。
 
 「ある種の格差」とは、経済格差と社会保障格差のことで、特に現在日本では経済格差が社会問題化されていることもあって、格差がなくなることはメリットはあれデメリットは一切ないのではないか、と思われがちだが、経済格差がなくなる、ということは現在日本に“暗黙の了解”として成立している身分区別すらも失われてしまう、ということでもある。
 どういうことか。「汚い仕事をする人間がいなくなる」ということである。
 現在は年収何十億稼ぐ人もいれば何百万も稼げない人もいて、例えば工事現場の整備員や、下水道の汚物処理業務などは、「何百万も稼げない人」の仕事で、今は辛くともこの仕事に耐え、精一杯努力して何千万と稼げるようになればこの仕事から脱却できる、という目標が、そんな汚い仕事をする際のモチベーションともなっている。
 それが金がなくなって、誰もが平等に1千万相当の物質が与えられる世界になったとしよう。
 だれが好き好んで下水道の汚物処理業務を請け負うようになるのだろうか。

 「ある種の平等」とは、どんなに生まれや育ちや環境や身分の差があっても、金さえあれば平等な権利を主張できる、ということで、例えばお金がなくなって、純粋な仕事量で食物の分配が決定される、という世界になったら、運動神経の鈍い人や身体的な障がいを負った人は、生まれた時点で食べられるものに制限が出てくる、ということで、お金がある世界以上にあからさまな差別が発生する。


 要するに、ただお金がなくなればいい、という問題ではないのである。

 じゃあ、人間はこのまま物質至上主義から脱することはできないのか、と言われると、そんなことはない。

 現在お金は何を供給しているのか。
 まず1つは「実質的な利便」である。例えば家電製品や医薬品などがそれで、お金があることで、誰もが掃除機や洗濯機や風邪薬などが平等に買えるようになっていて、それが人間の根本的な健康や社会的に豊かに生きる権利を支えている。
 もう1つが「理性の放棄権」である。要するに「金さえあれば何かを考えなくても済む」ということだ。金さえあれば今日の食い扶持に困ったり、面倒な仕事をしなくても済む、というところから始まって、ゴミをじゃんじゃんポイ捨てしてもメイドさんを雇って拾ってもらえばいい、とか、高燃費の車を走り回らせてもガソリンがなくなったら好きなだけ継ぎ足せばいい、というところまで、金さえあれば、自分のやっていることの周りへの影響などを考える必要がなくなる。


 このように、お金が与えてくれるものには2つの側面があって、物質至上主義におけるお金の存在が問題とされるならば、問題にすべきはお金が持っている「理性の放棄権」の効能なのだ。

 だから、禁欲主義にならずに精神的な豊かを求める方法は確実にあって、1つは「お金の存在を受容しながら、お金も持ちつつ理性をも保つ社会を構築する方法」。
 あるいは「理性の放棄を誘発するような物質だけを極力世界から廃棄する方法」。例えば娯楽や快楽にお金を使う、ということをやめさせよう、という方法だ。

 どちらが良くてどちらが現実的かは判断付け難いが、できるならば、ゲームやギャンブルや風俗やクラブイベントやアミューズメントを世界から少しずつ減らしていきながら、学校教育や企業研修などで「理性」の教育を行っていく、という方法が望ましいのではないだろうか。

 0か1ではなく、0と1を超えたところに答えを求める。それこそが、オルタナティブ、そしてサステナブル、ということではないのだろうか。