2008年03月20日
我慢と理性と目先の欲と
「ecogroove」さんの原発の記事に、string1245さんという人がコメントを寄せていて、そこでその人が、 「目先の欲より、どうしてもっと先のビジョンを見ることができないものか」と言っていた。 問いあるところには、必ず答えがある。 というわけで、なぜ現代人は「目先の欲」に囚われてしまうのか、少し考えてみた。 まず人間には誰しも欲がある。これはもう本能的なもので、欲を捨てろ、というのは相当に修行を積んだ仙人でもない限り、不可能である。 子供の時には、まだ自制が利かないので、とにかく欲をむき出しで表現する。だが、子供はまだ精神的にも経済的にも親に依存した状態で、その欲を充足させられるかどうかの決定権は親が握っている。 その親に「我慢しろ」と言われれば、素直に従うしかなく、そこで子供は、親から外圧的に強制される「我慢」によって、欲を抑制する。 それが大人になると、徐々に親から自立していって、「我慢」を強制されることがなくなってくる。 それと引き換えに、子供が大人になるにつれて、人生経験を積むことにより「理性と自制」の精神を育んでいく。 つまり大人は、我慢と引き換えに理性と自制の心を持つことによって、欲を抑制していく。 今の話を図にするとこうなる。原稿を書く前に図を作ってしまったので、「消費量」となっているところは、「欲」と読み替えて見ていただきたい。 左から右に行くに従い、年齢を重ねていく、という図式になっていて、子供時代は「我慢」によって欲を抑圧し、年齢を重ねるごとに「我慢」の量は減っていくが、それと引き換えに、今度は理性が上昇していき、理性が欲を抑圧する。 なので、「欲」の総量は、子供時代から大人に至るまで、一律に同量である、 というのが本来の在り方なのだ。 だが、実際には、こうなっていない。 理由は明らかで、大人になって育まれるはずの「理性と自制」の精神が、育まれていないからである。 子供時代の「我慢」は外圧なので、本人ではどうしようもない。だが「理性と自制」は、内圧的なもので、自分の中でいくらでもタガをはずすことが可能だ。 「理性と自制」が育まれないと、大人になってから、欲を抑制する手段がなくなる。すると、大人は経済的に独立しているので、いくらでの欲を放出することができてしまう。 このような形で、理性と自制が育まれなかった人が、大人になっても抑圧されずに欲望をむき出しにする状態、これを「目先の欲に囚われる」と、私たちは表現している。 つまり最初に戻って、「目先の欲より、どうしてもっと先のビジョンを見ることができないものか」という問いに対する答えは、 「理性と自制が育まれる機会のない大人が増えたから」ということになる。 ではなぜ、理性と自制が育まれる機会のない大人が増えたのか。 それはまず、偏差値偏重教育が、成績や成果のみを重視し、道徳観や人格形成の教育をないがしろにしてきたから、というのが一つ。 そしてもうひとつは、「人々が冷静さを失ったから」だと、私は考えている。 例えば、どんな困難や問題でも、気合や情熱で乗り切ろうとする人と、冷静な判断力と計算で乗り切ろうとする人がいて、お互いが衝突したり、協力したりしながら問題を解決することによって、ああ、情熱も大事だし、それを止める冷静な智慧も必要なのだな、と子供たちは大人の姿を通して学んでいく。例えば、「ガッチャマン」や「ゲッターロボ」など、昔のアニメや戦隊物は、熱血漢の”レッド”と、クールで冷静な“ブラック”がいて、お互いが助け合い、あるいは仲違いすることで双方がピンチに陥る、というエピソードを繰り返し流すことで、子供たちは「冷静と情熱」両側面の重要性を教えていた。 それが今や周りの大人を見ても、“ブラック”足りえる冷静な大人はめったに見かけない。 何か問題に対して、冷静で客観的な物の見方ができる大人がいない、ということは、冷静さや客観的な理性は、この世界には必要ないものなのだ、と子供は判断してしまう。 そういう経験が積み重なったことで、人々は先代の後姿を見て、自ら理性や自制の精神を捨てていってしまったのではないだろうか。 目先の欲に囚われないためには、理性と自制の精神を育むことが必要で、理性と自制の精神を育むためには、大人がもっと冷静になり、自らの後姿を通して、理性と自制が現実生活の問題の解決に役に立つのだ、と示す必要がある。 どうだろう、環境問題において、“ブラック”足りうる冷静な大人はどれほどいるだろうか。 自らの後姿を、エコロジーを通じて見せることで、理性と自制の精神を子供たちに育んでいく。そのことが、「目先の欲より、どうしてもっと先のビジョンを見ることができないものか」という問いへの、一番の答えになるのではないだろうか。
- posted by よっひ~ |
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原稿を書く前に図を作ってしまったので、「消費量」となっているところは、「欲」と読み替えて見ていただきたい。
左から右に行くに従い、年齢を重ねていく、という図式になっていて、子供時代は「我慢」によって欲を抑圧し、年齢を重ねるごとに「我慢」の量は減っていくが、それと引き換えに、今度は理性が上昇していき、理性が欲を抑圧する。
なので、「欲」の総量は、子供時代から大人に至るまで、一律に同量である、
というのが本来の在り方なのだ。
だが、実際には、こうなっていない。
理由は明らかで、大人になって育まれるはずの「理性と自制」の精神が、育まれていないからである。
子供時代の「我慢」は外圧なので、本人ではどうしようもない。だが「理性と自制」は、内圧的なもので、自分の中でいくらでもタガをはずすことが可能だ。
「理性と自制」が育まれないと、大人になってから、欲を抑制する手段がなくなる。すると、大人は経済的に独立しているので、いくらでの欲を放出することができてしまう。
このような形で、理性と自制が育まれなかった人が、大人になっても抑圧されずに欲望をむき出しにする状態、これを「目先の欲に囚われる」と、私たちは表現している。
つまり最初に戻って、「目先の欲より、どうしてもっと先のビジョンを見ることができないものか」という問いに対する答えは、

