2008年04月02日
なぜしたのか=なぜしなかったのか
人生は「選択」の連続である。 目の前の道は常に2路3路・・・あるいはもっと枝分かれし、人はその道の中から1つを選ぶことを余儀なくされる。 1つの道を選ぶ、ということは、“他の道を選ばなかった”ということと同義であり、何かを“する”選択をした、ということはすなわち、何かを“しない”選択をしたことと同じなのである。 今日エコ・フィロソフィの本を読んでいて、仏教哲学と環境問題に関する論文に目を通した。 「昨今西洋哲学に基づいた文明至上主義への反省として、東洋哲学が見直されてきているが、日本はかつて仏教哲学に基づいた自然信仰や「八百万の神」のような自然崇拝の精神を持っていたにも関わらず、文明開化においてその精神を捨て去った、という歴史を持っている。 かつて存在したものを捨て去った、ということは、新しい物にそれだけの魅力があった、と同時に、古いものにはそれだけの“落ち度”があった、ということでもあり、日本はなぜ西洋哲学を選択したのか、を考察すると同時に、日本はなぜ東洋哲学を守らなかったのか、ということを考察しないと、東洋哲学の復興は難しいだろう」 というようなことを論文では主張していて、なるほどな、と思った。 環境問題でも、例えば森を伐採して畑にする、ということが問題になるが、そこで考えなければならないのは、森を切って畑にする、ということにどれだけの魅力や利益があったのか、ということと同時に、森を守ることにどれだけの不利益と“落ち度”があったのか、ということだ。 マクロに捉えても、現在も世界中で環境破壊が進んでいるが、考えなければならないのは、環境破壊がどれだけ資本主義的な生産性を高めているか、ということと同時に、環境を守ることがどれだけ生産性を下げているか、ということだったりする。 日本も例えば江戸時代はかなり高度な循環型社会を形成していた、と言われる。それが明治時代になって崩壊した、ということは、黒船が引き連れてきた文明社会にそれだけの魅力があった、と同時に、当時の人々にとって循環型社会は、捨て去って余るほどの価値しか持っていなかった、ということでもある。 捨て去られたものはなぜ価値を持たなかったのか。どこに“落ち度”があったのか。 過去を見直し、自然に還るにしても、欠陥品のどこに欠陥があったのか、それすらも見出せぬまま、ただ闇雲に「懐かしい未来」を目指すのには、限界があるだろう。
- posted by よっひ~ |
- 21:38 |
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