2008年04月03日
通りすがりさんへのコメントに代えて:今改めて環境運動の意義を問う
※今回の記事は、アンチテーゼを投げかける意味で、あえて多分に暴論・極論を展開しています。 そういった過激な物言いに不快感を感じる方は、次回の記事までお待ちください。また、これからこの記事を読まれる方は、「そういう記事だ」ということをご了解いただいた上、気楽にご覧ください。 通りすがりさん、コメントありがとうございます。通りすがり、とのことですが、文章の書き方から推察するに、村上龍の小説のタイトルをパロったところから釣られてきたのだ、と推察します(笑)。 コメントをいただいた記事は、もう3ヶ月以上も前のものですが、こうやって昔に記事にコメントを頂いて、改めて記事を見直す機会があると、「ああ、あの時はこんなことを考えていたのだな」と、なかなかに感慨深い気持ちになります。 この3ヶ月の間に、私も勉強や考証を重ねて今に至るわけですが、通りすがりさんのおっしゃる「環境運動の意味」に関しては、ひとつ確信したことがあって、正直、この国における環境運動の7~8割方は、良いか悪いかは別としてまったく意味がありません。意味が無い、というのは、「環境問題の解決に何ら関与できない」という意味で、意味が無いということです。 そう考えるに至った理由は大きく分けて3つに分類されます。 ①何せ現場にいない チベットでの騒乱が勃発した際、大阪でピースウォークが行われて、「武力で問題は解決しない」と訴えたそうなのですが、そのニュースがネットに掲載された際のレスが、ほぼ8割方「やるなら中国かチベットでやれよ/言うなら中国かチベットに言えよ」という内容で埋まっていました。 例えば、トウモロコシや大豆の供給のために、アマゾン流域の熱帯雨林が伐採されているそうです。また、割り箸を作るために、シベリアの森林が伐採されているそうです。 これは確信を持って言えますが、エコロジストと呼ばれる人の中で、アマゾンやシベリアへ実際に行ったことがある、という人は、全体の2%にも満たないと思います。 原発の問題でも同じで、例えば新潟の柏崎原発が危ないので、稼動を止めたい、と言う人がいます。じゃあその人は新潟に住んでいて実際に事故が起きた時に被害を被るのか、と言われればそんなことはなく、じゃあ現地の人が被害を被ることを心配して、現地の人が他所へ避難できるように家を手配したり、資金を援助したりしているのか、と言われるとそうでもない。 要するに、森林伐採にしろ原発にしろ何にしろ、環境運動をしている人たちは、破壊が進んでも痛くも痒くもない対岸で、ただダメだダメだ、と騒いでいるだけなんです。 先日割り箸の話題をこのブログで出したのですが、割り箸が悪だ、とエコロジストが断罪したせいで、経済的に大損害を被った割り箸業者が実際にいるそうです。六ヶ所村における核燃料再処理施設の問題に関しても、六ヶ所村の海や空気に大量の放射性物質が流れている、とエコロジストが触れ込んだせいで、廃業に追い込まれたりんご農園の農家がいる、という話を聞いたことがあります。 当事者でもない人たちが、何のリスクも責任も問われない立ち位置で、ただアンチテーゼを投げかけている、というのが現在の環境運動における現状で、例えば植林をするのなら、実際に砂漠化が進んでいる地域に赴いて現地の林業従事者と話し合いながら「森林伐採による砂漠化を食い止めて」こそ、環境問題の何がしかが解決した、と言えるはずなのに、なぜか日本の環境運動では、児童公園のプールの周りを花で囲って、「自然に触れる、って楽しいね」みたいな次元に留まってしまっています。 何か意味があるのか、よく分かりません。 ②とかく非効率である 「ハチドリのひとしずく」という、その筋の人たちの中だけでとかく有名な逸話があります。 山が火事になって、動物たちがみんな逃げているところ、ハチドリが火元に向かって水を一滴垂らしながら、「私は自分にできることをしているだけ」と言い放つ、というお話で、なぜかエコロジストたちの心の拠り所になっているお話です。 私は以前にも、「本当に山火事を消したいと思っているのなら、一滴垂らす前に、誰かに助力を求めればいいじゃないか」ということを記事で書いたことがあるのですが、そういう根本的な解決法を考えるよりも、地道に汗水垂らして努力している、という美談を日本人は好む癖があって、これは『巨人の星』から『金八先生』に至るまで綿々を受け継がれてきた、この国の文化でもあるので、一概にエコロジストを責めることはできないのかもしれませんが、とかく「根本的な解決策を考証する」ということを環境運動では怠る傾向があるので、何の運動にしろひどく効率が悪い。 『分裂勘違い君劇場』というブログの「「地道な努力」よりも、はるかに人生を好転させる努力の仕方」という記事に、私は感銘を受けています。 例えば、ある場所を植林しなければならなくて、そのための費用に1000万かかるとする。そういう場合、1日500円ずつ貯金して、1ヶ月に1回1本ずつ木を植林するよりも、仕事を一生懸命して、出世して1000万円稼げるようになれば、1日で問題は解決してしまう。 このような感じで、ある環境問題を解決させるためには、地道に運動を続けるよりも、別の方向へ頭と身体を動かしたほうが効率が良い、ということも多くて、「ある問題を解決するに当たって、どういう手段を講じるのが最も効率性・生産性が高いのか、その手段を導き出すための知性や技術を磨くこと」を、本来「努力」と呼ぶのですが、「一生懸命1本ずつ木を植えています」ということを努力と呼ぶ風潮が環境運動の中にはいまだにあって、それが「ハチドリのひとしずく」が支持される一つの所以にもなっています。 マイ箸などがいい例で、本当に割り箸をなくしたいのなら、その定食屋の筆頭株主になって洗い箸の使用を進言するか、洗い箸の現物を定食屋さんに寄付するか、どちらにしろ一番効率的なのは、「みんなでお金を持ち寄って、割り箸を撤廃させるだけの資金を集める」ことなのですが、そういうのは「ウケない」という理由で今でも、「みんなでマイ箸持ちましょう」と声を枯らして叫び続けなければならないわけです。 ③最終目標・最終到達点が「環境問題の解決」に向かっていない 通りすがりさんの指摘する通り、環境問題の究極の到達点は、「人類がとりあえず存続できるまでに、地球環境を戻すこと」であり、どんな環境活動であるにしろ、その主旨は「人類延命活動」であるべきなんです。 例えばゴミ拾い、という運動があったとします。ゴミを拾うことで、人類は延命できるのか、と言われるとそんなことはない。じゃあ、社会を変革するんだ、という目標を持っていたとする。そういう目標ならば、するべきことはゴミ拾いではなくて、その地域で活動している企業を回って、ゴミを捨てないよう社員全員に徹底するようお願いして回ることです。では、街が汚いのが嫌だから景観を取り戻すんだ、ということが目標だったとする。すると今度はエコロジーと関係がなくなってくる。 このような感じで、今俗に環境運動とカテゴライズされているものも、突き詰めて考えていくと「何をどうしたくて、どうなることがゴールなのか」曖昧な活動が非常に多いんです。 社会を変えたい、世の中のシステムを変えたい、と訴える環境運動はたくさんありますが、社会やシステムを変えることで、環境問題の何がしかが解決し、人類が存続できる、という方向にベクトルがしっかりと向いていれば話は分かるのですが、ただ「世直し」的に正義を振りかざして、「今と社会が変わればそれでいい」というところで理念が止まってしまっている活動は、かなり多いです。 それが通りすがりさんの進言する >決して耳触りの良い美辞麗句で本来の意味を誤解させることの無き様、注意願いたい ということでもあり、その意見は私も同意します。 例えば大きなところでは「Live Earth」や「ap bank fes」などがそんな感じで、じゃかじゃかと大音量で音楽を掻き鳴らして「地球を大切にしよー!」と訴えても、別にそれで木が生えてくるわけでもなければ、人類が存続できるわけでもない。「Live Earth」など、結局ライブ会場での大量のゴミのポイ捨てが逆に問題になったくらいで、何をしたいのかさっぱり分からない。「エコを考えるきっかけにはなる」という反論もあると思いますが、「地球を大切にしよー」と叫ばれて「そうだよねー」と、何の考証もなく受け入れてしまうような人は、ただ周りの空気に流されてしまうかわいそうな人か、相当に純朴な人かのどちらかで、どちらにしろ後々人を騙すか自分が騙されるかどちらかするようなタイプの人で、決して良いこととは言えません。 以上の理由で、私はとりあえず現段階のこの国の環境運動には、意味が無いと思っていて、偶然ながらも、私は現段階で、どの集団、どの組織にも属しておらず、それは良いことだった、と確信しています。 今の環境運動は、「漠然と世の中に不満を持っている人の捌け口」か「毎日のルーティンワークに疲れた人が、大人の青春を謳歌するための社交場」としてしか機能しておらず、効能があるとすれば、人脈を開拓すればリストラされて無職になったときに誰かが助けてくれるかもしれない、とか、とりあえずいい事をした達成感に浸れて良い酒が飲める、とかそんな程度だと思います。 環境運動の本来の目的は、すべからく「人類が存続できるように、これ以上自然を痛めつけないよう人々の意識を改革していく」ということにあると思います。 そのような、本来の目的を成就させることを最優先に考えるのであれば、まず「組織・集団を解体」させてはどうか、と思うのです。 例えば、今日本の捕鯨の問題が注目されていて、日本の漁船を襲ったオーストラリアの環境団体は「環境テロリスト」などと揶揄されています。 あれはなぜ、テロリストなどと呼ばれてしまうのかと言うと、「ある一団体」の取った行動だったからです。あれが、団体ではなく有志で集まった集団だった、ということであれば「オーストラリア国民の総意」という捉え方もできたはずなんです。 集団や組織が形成された時点で、そんな思想も、どんな哲学も、ある集団内、という内輪の中に閉じ込められてしまう。 だからこそ、あえて群れず、個人として私は環境問題に危機感を抱いている、という立場を取ることが、市井の人々を動かすためには必要だ、と考えていて、私はこれからもそのような立場を取り続けよう、と考えています。
- posted by よっひ~ |
- 21:02 |
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