何が間違いで、何が正しいのか、語ることの難しさ

 昨日は「格差」のことを書いた。

 今日本はかつてないほどの格差社会だといわれている。年収300万以下どころか、年収200万以下の人たちも現れ始め、生活保護申請者はかつてないほどに膨れ上がり財政を圧迫し、病気や怪我をしても病院に行けない人や、子供の給食費を払えないような家庭も少なくないと言う。

 だが言っちゃあ何だが、昔は格差はもっとひどかった。
 戦争直後はテレビや洗濯機や冷蔵庫を買える人などごく限られた金持ちだけだったし、職業選択の自由もなかったから一度年収の低い職業に就いてしまったら一生を棒を振る以外に選択肢はなかったし、風疹や日本脳炎の予防接種が受けられなくて死ぬ子供だっていたし、努力しようが逆立ちしようが、持てない人は生涯何を持つこともできなかった。
 昔の格差が問題にならないのは、高度経済成長を経て、徐々に徐々に格差が是正されていったからだが徐々に格差が是正された、ということと、初めから格差がなかった、というのはまた別の話で、時間軸で考えれば10年前は金持ちの持ち物だったものが10年経って庶民も持つことができるようになった、という意味合いで格差はない、と考えることも可能だろうが、空間軸である1時期を捉えれば、そこに格差は確実に存在していて、お金持ちがテレビやゲームを楽しんだり、遊園地に行ったりドライブをしたりしているその裏で、そういう楽しみに一生ありつけない、と諦めていた人たちがいて、そういう人たちは、本を読んで知見を広げる自由も、未来を夢見る自由さえなかった。
 要するに、金のない人にとって、未来とか、夢とか、世界とか、希望とか、将来とか、そういったものは雲の上の世界の話で、今日と明日を生きること、それだけがその人たちにとってのすべてだった。

 今、「今さえ良ければそれでいい」と考える若者の思考が問題とされている。だが、そういう若者を生んだのは、若者を育てた親であり、そのまた先祖である。「今さえ良ければそれでいい」という考え方は、決して今に始まったことでなく、おそらく、そういう若者は、かつて「今日と明日」しか考えることのできなかった人たちの成れの果てなのだ。

 難しいのは、日本は今日の経済発展を遂げたおかげで、世界や未来を描く自由を手に入れたのと同時に、「今さえ良ければそれでいい」と思っていても生きていける権利を得た、ということだ。
 「今さえ良ければそれでいい」という考え方は問題だと言うが、「今さえ良ければそれでいい」と思っていても生きていけるのは、経済発展のおかげだし、「今さえ良ければそれでいい」と思うことが受け入れられること、それこそが平等であり平和と呼ばれるものなのである。

 何が間違っていたのか。何を是正すればいいのか。
 それは単純な勧善懲悪で語れるものではないし、根本を辿れば辿るほど、底が深いものなのだ、と気づかされる。

 「今さえ良ければ」と思えない世界は絶望だ。だが「今さえ良ければ」という思考は、徐々にこの世界を蝕んでいる。
 希望こそが正しさなのか、絶望こそが正しさなのか。正義など、どこにでもあって、どこにもない。