「エコ」という高級ブランド?

 格差が広がるにつれ、学歴志向が徐々に復活しつつあるらしい。
 
 いわゆる「勝ち組・負け組」という意識枠の中で、勝ち組に入るためには良い企業に就職しなければならず、そのためにはいい学校を卒業しなければならない、ということで、将来を見越して子供を偏差値の高い私立校に通わせようとする親が増えている。
 偏差値が高い、ということで言えば、国公立の学校でもいいような気もするのだが、特に「私立校」が強調されるのは、私立校は「偏差値」と「学費の高さ」という二重のふるいが用意されていて、その2つのふるいの乗り越えてきた“精鋭”のみが集まるため、単純に「治安がいい」というメリットもあるからだ。
 要するに、子供の将来の選択肢を摘まないためにも、そして現在においていじめや裏サイトや悪徳教師やモンスターペアレンツとその子供などの悪影響を受けないためにも、偏差値の高い私立校が最善の策だ、という認識が成り立っている、ということだ。

 そのため、現在では小学校低学年から塾通いをさせる家庭も増えているそうだ。
 もちろん、小学校低学年から塾通いをさせる、ということは、それだけ養育費もかさむ、ということで、現在では、特に私立中学は
 「塾に通わせる経済的余力があって・かつ入学した後の学費を払う経済的余力もあり・しかも偏差値も高い」という三重の門が用意された難関となっていて、それが「私立中学に入れば子供の将来は安泰だ」という神話をより増長させる結果になっている。

 つまり現在、私立中学に入れるかどうかは、「小学校低学年から塾に通い、その後もきちんと学費が払えるか=経済的余力」にかかっており、「学力=将来」は金で買う時代になっている、ということだ。
 
 しかし、そんな“時代”は長くは続かないのではないか、と例えば『下流社会』の内田樹さんは予想している。
 高学歴は金で買う、ということは逆に言えば、金がない人間は学歴を買えない、ということでもあり、その傾向が続けば、学歴は“高嶺の花”になっていき、庶民には手の出せない代物になっていく。
 そうなれば、ポルシェや、プール付きの庭や、世界1周の旅などと同じように、学歴も、「高嶺すぎて逆に用のないもの」として、庶民から見捨てられ、忘れ去られていくだろう、というのが、その主旨だ。


 翻ってエコのことを考える。
 先日の割り箸の記事に、ネイチャー木村さんという方がコメントをくださって、その返答として、
 「ネット環境がなければ、割り箸の原産国も知ることができないし、環境問題における提言や情報なども検索できない。それはつまり、ネット環境があるなしで、エコロジーにどれだけ深く関われるかに差が出てくる、ということで、環境運動にも「ネット格差」が広がりつつあるのかもしれない」
 という主旨のことを書いた。
 そう考えると、現在フェアトレードの商品は、地方では通販でしか手に入れることができないし、有機野菜も、その入手ルートの制限から、現状では一部の人たちだけしか享受できていない。
 経済的に余裕がなければ、エコ家電を買うこともできなければアースデイに行くこともできない。ネット環境がなければ、エコロジー系のワークショップやボランティアの情報も手に入らないし、クリック募金もできなければ、エコナコトにブログを書くこともできない。

 そう突き詰めて考えていくと、都市部か地方か、ネット環境があるかないか、経済的に余力があるかないか、土曜日曜が休みかどうか・・・エコロジーに参加するためのふるいは、幾多に渡って張り巡らされていて、環境運動に参加すること自体が、「上流階級の特権」のようなものになってしまっている。
 そうなると、エコロジー自体も、学歴と同じく、バーバリーブラックレーベルや、プラダや、フェラガモや、クリスチャンディオールと同じような「高級ブランド」として扱われてしまい、「高嶺すぎて逆に用のないもの」として、いつか忘れ去られる時が来てしまうのではないだろうか。

 例えば、電車が2時間に1本しか来ないような片田舎のスーパーでパートをしているような人、例えば駅前のアーケード下でダンボールに包まれながら新聞を読みふける人、例えば子供とだんなが外出した後何もすることがなくてワイドショーを眺めながらポテトチップスを食べ続ける人、例えば、一日中ネットカフェに入り浸り、夜暗くなるまでモンスターハンターでモンスターを狩り続ける人。
 彼らのような人たちにまで、エコロジーを浸透させるにはどうしたらいいのだろう。私たちが考えなければならないのは、そういうことなのかもしれない。