聖火と高尾山

 聖火リレーを見ると、大変だな、と思ってしまう。

 大変だな、というか、それ以上の感想が出てこない。たしかに、チベットに対する中国の弾圧は糾弾するに値するものだろうが、中国のような、いわゆる「近代大国」が、少数民族を弾圧するという前時代的な行為を行っていることに対し、その相手の「巨大さ」ゆえに、アメリカや日本が、世界情勢の均衡を重視するあまり何も発言ができない、という事情も理解はできる。
 だがそういった事情は別にして、武装化した集団が聖火リレーの走者を取り囲み、街頭にはチベットの旗が靡き、卵や石を投げつけたり、リレーを妨害しようと走者に突っ込む人が現れては、警備隊に取り押さえられる、という光景を目の当たりにすると、「なんか話がややこしくなってしまったな」と、純粋な気まずさ、というか、ばつの悪さのようなものを感じてしまう。
 問題の根本とは別のところで、何かが捩れてしまった感があって、聖火リレーに関しては、どう考証すべきなのか分からなくなってしまっている。それは私個人の感想のみならず、各コメンテーターも多かれ少なかれ同じような感想を抱いているように見える。

 一つ確かに言えるのは、どんなに反発があって、問題や衝突が起ころうとも、「聖火リレーは止まる事はない」ということだ。
 聖火リレーは、いわば平和の象徴でもあり、聖火リレーを止めることは平和が暴力に屈することを意味する、という大義名分的な事情もあるのだが、もっと現実的に捉えても、聖火リレーを止めてしまえば、国際世論の反撥を受けることは必至だ。
 だから大義名分は別として、「周りに何を言われるか分からないから」という理由で、聖火リレーは止まる事はない。


 そういう意味では、高尾山のトンネル工事も同じなのだろうな、とふと考えた。
 工事業者の大義名分は別にして、ここで工事を止めてしまうと、他の自治体や、官僚や、都や支援団体から何を言われるか分からない、という理由で、工事が止める事ができない。
 どんなにチベットの旗を振り、石や卵を投げつけ、沿道に突っ込んでも、聖火リレーが止まらない、というのと同じように、どんなに抗議行動を続けても、トンネル工事が止まる事はないのだろう。

 高尾山の座り込みは今でも続いているようだし、この間は「高尾山にトンネルを掘らないで」というTシャツを着て、山周辺をぶらぶらする、というイベントもあったようだが、そのようなことをして、何がどうなったらトンネル工事が止まる、と、彼らは考えているのだろう。
 座り込みやイベントに意味がない、と言いたいのではない。座り込みやイベントから、トンネルの工事が止まるに至るまでに、どういうプロセスや段階を経ると各々が考えているのか、ということを、きちんと公表して共有すべきではないか、と思うのだ。
 例えば、1000人のTシャツを着ている人の姿を見た自治体の責任者が、その光景に涙を流して「申し訳なかった」と反省し、その手腕を駆使して各工事業者に手切れ金1000万円ずつ、合計3億7000万を出資し、工事を差し止めた、というようなシナリオを思い描いている人もいるのかもしれないし、1000人のTシャツを着た姿を、偶然その日観光のために山に来ていた富山県のネットコミュニティ組織のリーダーが目撃し、その姿に感動したリーダーが地元に帰ってから、その人脈とネットワークを駆使してマルチ商法で数万人の会員から3億の金を手に入れ、その資金を元にゲリラ組織を結成し、工事業者に殴りこみをかけて工事業者を物理的に粉砕した、というドラマチックな展開を期待している人もいるかもしれない。
 
 とにかく座り込みをして何がどうなったら工事が止まるのか、Tシャツを着て何がどうなったら工事が止まるのか、その「何がどうなったら」ということをきちんと共有する必要なあるのではないか、と思うのだ。
 たとえ毎日にように座り込みを続けている人でも、さすがに富山県のネット組織のリーダーがゲリラ集団を組織する、と考えているとは思えないのだが、では「じゃあどういうシナリオを思い描いているの?」と問われて、明確な答えを返せる人は、誰もいないような気がする。

 反発が大きく、問題や衝突があっても、現実がストップすることは、そうそうあることではない。
 そうそうあることではないからこそ、クリティカルな現実の転換のためには、深く、広く、正しく、冷静に考える必要があると思うのだが、聖火リレーを妨害する人も、高尾山のトンネル工事に抗議する人も、その行動の前に、そこまで深く考えているのだろうか。
 そこが、「なんか話がややこしくなってしまったな」と感じざるを得ない、一番の原因なのかもしれない。