2008年05月07日
「ローカライズ」という閉鎖空間
遅くなってしまった。 例えば、現在の環境問題の一番の元凶は、「グローバリゼーション」だ、と言われていて、私もそのような言及の仕方を過去にしたことがある。 グローバリゼーションには2つの側面があって、自国で賄いきれない物的資源を他の国から奪取することで発展を計ろうとする、という考え方と、世界を舞台に事業を展開することで、世界中の顧客を相手にして事業の発展を計ろう、という考え方がある。 共に「自国を枠を抜け出して、世界の頂点に立とう」という考え方が根底にあって、世界中の人々が、世界中の資源を奪い合い、世界中の人々をこき使い、世界の頂点の座を奪い合う、というシステムが、人間という種の身の丈を遥かに越えてしまっていて、その弊害が環境破壊という形で表出されている、というのが、「グローバリゼーション元凶論」の基本的な考え方だ。 その反動として、例えばこの国でも、他の国からの輸入食品に頼るのをやめて、地産地消を行おう、という動きが出ていたり、国産の木材を使おうという動きが出ていたりして、外国に頼らず自分の国だけで自分の国のことは賄おう、という運動が少なからず展開されている。 ふと思ったのが、では日本は、鎖国を解かなければ良かったのだろうか。 例えば、今遺伝子組み換え食品の使用が問題化されている。遺伝子レベルで食品の耐性を強化することが、自然の法則から言うとあまりにもかけ離れすぎていて、そういった食物を体内に摂取することで、体内に悪影響が出るのではないか、と懸念されている。 しかしそもそも遺伝子組み換え食品は、不作による飢饉を避けられるよう食物を強くしよう、という理念が根底にあり、遺伝子組み換え食品があったからこそ、現在の人口は維持されていて、その恩恵は途上国の飢えに苦しむ人にも施されている。 遺伝子組み換え食品がなくなればいい、というのは、途上国で餓死者をもっと出すべきだった、ということなのだろうか。 なぜそんなことを考えているのか、というと、環境問題において、「~~が悪いから○○をしよう」ということはよく言われるが、その元凶に対して、「どこがどう悪くて、どこから間違いは始まったのか」という原点を問われることはほとんどないな、と思ったからだ。 例えばグローバリゼーションが悪い、というならば、遡って、外国に行けるようになったのが悪かったのか、外国から物を輸入したり輸出したりすることが悪かったのか、外国を相手にすることが悪いと言うならば、森鴎外がドイツに渡ったのが悪かったのか、井伊直弼が黒船を受け入れたのが悪かったのか、それとも織田信長がキリスト教を受け入れたのが悪かったのか、間違いはどこから始まったのか、がよく分からない。 そもそも、世界視野で物事を捉える、という考え方自体は決して悪くなかった、と思うのだ。日本は元を辿れば、今使っている漢字や箸や、法律や仏教的な教えなども大陸からの輸入品であり、世界に目を向ける、という観点がなければ、いまだにアフリカの先住民族のような生活をしていただろう。 今懸命に叫ばれている「ローカライズへの回帰」は、どうも「殻なんて破らなければ良かった!ずっと殻に閉じこもっていればよかったんだ!」と言っているような気がして、腑に落ちない。 たしかに、日本の人々養うために外国から食物を輸入する、という現状は不自然だ。だが、そうしなければ、すべての人々の食を賄うことができない、という理由で、捨てられる生命もあったかもしれない。今生まれてくる子供に、「あなたはグローバリゼーションの過剰発展で生まれてきた子なのだから、本当は生まれないほうが地球のためだった」とは決して言えない。 発展がなければ、自分の子供は「望まれない生命」のレッテルを貼られていたかもしれない、ということを踏まえた上で、発展のどこまでが良くて、どこから間違いは始まって、それが何が間違っていたのか、そのことを捉えなおす必要があるのではないだろうか。 私たちが為すべきは、地産地消という「閉鎖空間」に生きることでは、決してないと思う。
- posted by よっひ~ |
- 23:51 |
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