アート、というもの

 人は、海は蒼いと言う。しかし私には、海が血の様な鮮烈な紅に見えるのだ。
 
 さあ、どうしよう。

 こういう場合、人の反応は2つに分かれる。「自分は頭がおかしいのかもしれない」と思うタイプと、「人の見ている世界は間違っていて、私にだけ世界の真実が見えているのだ」と思うタイプ。
 つまり、要は優劣の問題で、自分は人よりも“欠けている”のだ、と思うタイプと、自分は人よりも“突出している”のだ、と思うタイプに分かれる、ということだが、どちらにしても、人は「自分は他人と違う世界が見えている」ということを知ったとき、どうしてもそれを吐き出さずにはいられない。“欠けている”人は、自らの欠陥を受け入れてもらうために、“突出している”人は、庶民に世界の真実を知らしめるために。

 だから“欠けている人”も“突出している人”も、世界に向かって叫ぶ。海は紅いのだと。
 その叫びを、人は「アート」と呼び、叫び続ける人を「アーティスト」と呼ぶ。

 絵画から音楽から彫刻から、慈善事業からこのようなブログに至るまで、「私には世界が人々と異なって見える」という叫びは、すべてが表現であり、アートである。技量的な優劣は存在しても、その存在は等しく、平等である。
 
 逆に言うと、海が紅く見えるからこそ、人はアートを目指すのであり、海が青く見える人には、そもそもアートという領域を欲する必然性が存在しない。
 そういう意味で、今、海が紅いと声高に叫ぶ人は、徐々に減っているように思う。

 エコロジストも、本当は「海が紅く見える人」の1人、なのではないかと思う。
 
 エコロジストにこそ「アート」が必要なのではないだろうか。
 「私には、世界が人々を違って見えるのだ」それを世界に叫ぶために。