正しさゆえの過ち

 うつの人に「頑張れ」と言ってはいけない、とよく言われる。外から見ると怠けているように見えても、その心の内では、葛藤や苦悩や懺悔など、様々な感情が渦巻き、その感情と精一杯闘い続けているからだ。
 つまり、心の中では既に限界まで頑張り続けていて、うつの人から言わせれば「これ以上何を頑張ればいいんだ」という話になり、実際にうつの人の中でも、そのような訴えを起こす人も度々いる。
 しかしそれは厳密に言うと、少し間違っているのではないか、と私は思う。

 「頑張れ」とか「無理しなくていいよ」とか「少し休めば」とか「そんな小さなことにくよくよするなよ」とか、いろいろな人がいろいろなことを言う。
 そのすべては、実際にすべて正しく、反論の余地もない。
 だが、反論の余地がないからこそ、そんな彼らの声掛けや期待に応えることのできない自分が、申し訳なく思えてしまうのだ。
 つまり、決してうつの人は彼らの励ましや慰めに反撥しているのではなく、きちんとその言葉を受け止め、その意味を理解し、それが正しく、心のこもった真摯な態度から投げかけられた物である、と分かっているからこそ、その期待に応えられない自分が、その人の存在そのものを否定してしまっているのではないか、と思ってしまうのだ。

 うつになると、他人が自分のことを気にかけている、ということそのものが怖くなってしまう。だからことさらに孤独を感じたり、外との接触を避けたりする。
 人は本当は孤独ではない、と重々分かっている。それでも自分は孤独だ、と思わざるを得ないのは、自分の支えてくれる人たちの存在の期待に、自分が応えられていない、と思っているからであり、自分のせいで他人が悲しい思いをするならば、自分の存在など認知されなければいい、と思ってしまうからだ。
 うつの人が「自分は孤独だ」とか「理解者がいない」と嘆くのは、本当にそういう存在がいないのではなく、ある種の自己防衛なのだ。

 だからこそ、うつの人への本当の理解とは、「言葉を受け止め、何も言わずただそばにいることだ」と言われる。
 コミュニケーションとはキャッチボールだから、どうしても言葉を受け取ったら、それを投げ返したくなってしまう。
 だが、うつの人は、正しく、心のこもった、優しい言葉が怖いのだ。
 だから、ボールを受け取ったら、ただ、「受け取った」というサインだけを示してくれればいい。それが何よりの、理解になるのだ。