森林を再生するリスク

 新聞に某養蜂場の社長と大学教授という人の対談が掲載されていて、文明の破壊の歴史は森林の破壊の歴史だ、と熱く語り合っていた。
 温暖化とかCO2削減とか低炭素化社会とか、相変わらずのキーワードを不用意に引用しているあたり、何か浅いな、という印象を拭えない対談だったが、やはり結論は「森林を再生させなければなりません!」というありきたりなものに終わってしまった。

 森林が破壊されることで、環境破壊が起きているのは分かる。だから森林を再生させなければならない、という意見は正しい。
 だが問題は、「なぜそれでも森林破壊は止まらないのか」ということと、「何が森林再生の足枷となっているのか」ということで、もう語るべきは「森林を再生するリスク」へとシフトする時期に来ているのではないだろうか。

 例えば焼畑で焼き払われた森林の多くは畑や牧場に姿を変える。
 なぜ畑や牧場に姿を変えるのか。それだけ食物を必要とする人間の絶対数が増えているからである。
 だから、今畑になっている場所を再び森林に戻すとするならば、それだけ食物を必要をする人間の数を減らさなければならない。
 つまり、何千何万という単位で、世界の誰かを殺害しなければならないのである。

 いやいや、そうではなくて、現在は日本のように食物を大量に輸入しては大量に廃棄している国もあって、必要以上に食物が作られすぎているのだ。だからその「過剰分」の畑を森林に戻しさえすればいいのだ、という声もあるだろう。
 しかしそれでも、その場合それまで生産し流通していた食物が姿を消すのだから、その食物を生産し、販売していた企業が大打撃を受けることになるだろう。減収だけで済めばいいが、企業の大量倒産、大量リストラの断行、という事態になれば、今のサブプライムローンのように、大量の難民が発生し、世界的な悪影響を及ぼす危険性もある。

 要するに、「破壊されたものを元に戻そう」と、言うのは簡単だが、現実はそんな簡単な話ではないのである。

 「あるものを得ようとすれば、他の何かが犠牲になる」というのは、人生における大前提のはずだが、ことエコロジーにおいては、「何かを得ようとして犠牲になるリスク」に目を背けることが多い。
 例えば森林再生、ということで考えるならば、発言者の責任として、その養蜂場が、森林を破壊している食物会社からの転職者を無条件で採用する、と宣言すれば、大幅な森林破壊の抑制が図れるだろうが、そのような“責任”を果たそうとするような企業は、その養蜂場含めてどこにも存在しないだろう。

 ここまで環境破壊は進んだ状態が“常態”となっている現状で、世界を変えようとすれば、必ず犠牲者が現れる。その際のリスクヘッジやリスクマネジメントが語られない限り、環境の再生は、進まないだろう。