環境問題の深部

 環境問題解決の「最終的なゴール」はどこなのだろうか、という疑問を、以前にも記事にしたような気がする。
 即物的に木がなくなったのであれば木を植えましょう、という話は分かるし、電気を使いすぎているのなら電気を節約しましょう、ということにもなる。
 現状、問題とされている事に対する対処法ならいくらでも思いつくのだが、じゃあどうなったらゴールに辿り着いた、と言えるのだろうか。
 
 例えば「低炭素社会の実現」というスローガンがあったとする。それは、全人類が物理的に二酸化炭素を使用しなくなればゴール、なのだろうか。
 例えば、「森林を伐採しない世界を作ろう」というスローガンがあったとする。それは、今ある本棚や学習机やコンポのスピーカーが全部プラスチック製になればゴール、なのだろうか。

 要するに「環境に優しい社会」と言うものの、人々は「何がどういう状態になった時が“環境に優しい社会になった”と言えるのか、そのゴールを見据えた上で動いているのだろうか」という疑問があるのだ。

 なぜそんなことを考えているのか、と言うと、例えば今人が自然を大切にしなくなったのは、自然に対する「思いやり」の心がなくなったからだ、という定義が成り立つとして、じゃあ「思いやり」の心を育むのはエコロジーの問題ではないのではないのだろうか、と考えているからだ。
 例えばエアコンを寝ている間中付けっぱなしにしている人がいる、とか、物を使い捨てにする人がいる、とか、要らない物までどんどん買ってしまう人がいる、とか、ちょっとの移動にも自動車を使ってしまう人がいる、などといった人間の問題があって、それが、思いやりの心がなくなった、とか、人と人との繋がりが失われた、とか、誰もが誰もを嫉む社会になった、とか、自分の事さえ良ければそれでいいと考える人が増えた、とか、今という瞬間の快楽しか考えられず未来に対する想像力が失われた、などという現代社会の心理構造に基づいた「結果論」なのだとすれば、エアコンを消しましょうとか、物を大切にしましょう、とか、そういった注意をしたとしても、問題の「上っ面」に対処した、というだけで、根本的な解決にはなっていないのではないか、と考えているのだ。

 本当はエコロジーとは表面的な問題で、真の問題はその深部に存在する、というのであれば、本当に考えなければならない問題も、環境問題ではない、ということになる。
 そういう意味で、本当に環境問題を解決させるのは、エコロジーではないのではないか、と思っていて、今その答えを社会学や心理学や探っている。

 答えはまだ、出ていない。